第11話 : 再起動

真っ暗な部屋の中、光はベッドの上で膝を抱えていた。

もう何日こうしているだろう。

カーテンはずっと閉め切ったままで、昼も夜も分からない。


SNSのアカウントは消した。

スマホの電源もあの日からずっと切っている。

誰とも話したくない。誰の顔も見たくない。


心が空っぽだった。

必死に作り上げてきた「天野光」という偶像は、もう跡形もなく崩れ去ってしまった。

残ったのは、中学時代の無力で透明人間だった自分だけ。


(もう、頑張るの疲れたな…)


そう思った時、不意に机の上で充電していたタブレットの画面が光った。

SNSの通知だ。

光は思わず身を固くする。


ああ、そうか。こっちのアカウントは消し忘れていた。

見たくない。

でも、指が勝手に動いてしまう。


DMが一件。

nullというIDから。


nullさん…?

なんで今さら。

もう、関わらないで。私のことなんて、放っておいて。

そう思って削除しようとした指が止まる。

メッセージは何も書かれていなかった。

ただ、一行のURLだけが静かにそこにあった。


罠かもしれない。

また私を傷つけるための新しい悪意かもしれない。

でもなぜか、光はそのURLをタップしていた。

もう、これ以上傷つくものなんて何もない。そんな自暴自棄な気持ちだったのかもしれない。


画面が切り替わる。

表示されたのは、深い藍色の静かな夜空のようなページだった。

最初はそれだけ。


エラーなのか、まだ読み込み中なのかも分からない。

光はただ無心にその何もない夜空を眺めていた。


するとぽつり、と。

画面の隅に小さな星が一つ灯った。

そして、その星の中からふわりと文字が浮かび上がる。


『光ちゃんの笑顔に、いつも元気をもらってます!』


「……え?」


最初は意味が分からなかった。

なんだろうこれ。

そう思っていると、また一つ別の場所に星が灯る。


『モデルの仕事、大変だと思うけど頑張って!』


また一つ。


『今回の件、色々言われてるけど、私はずっと光ちゃんの味方だよ』


また一つ。


『負けないで!』


次から、次へと。 夜空に星が生まれていく。 その一つ一つに、温かい言葉が灯っている。 それは、世界中から集められた応援の言葉だった。


光は食い入るように画面を見つめた。

流れては消えていく無数の星々。

その一つ一つを逃さないように、必死で目で追った。

凍りついていた心の表面が、少しずつ溶けていくのを感じる。


「……あ…」


堪えていた涙が、ぽつりと一滴頬を伝った。

でも、それは始まりに過ぎなかった。

一滴、また一滴と涙が静かにこぼれ落ちていく。

それは、今までの悔しくて悲しい涙じゃなかった。

温かくて、胸の奥がじんわりと熱くなるような優しい涙だった。


私は一人じゃなかったんだ。


この世界にこんなにも優しい言葉が溢れていたなんて、知らなかった。


誹謗中傷のノイズにかき消されて、気づかなかっただけなんだ。

透明人間じゃなかったんだ。


光は泣きながらそのページをずっとずっと眺めていた。

そして、ふとあることに気づく。


nullさん。

あなたがこれを作ってくれたの?

私のために?


私を絶望させた残酷な「事実」を突きつけたのも、あなただった。

でも、今私の目の前にあるのもまた、あなたが作り上げた優しい「事実」。

あの時、あなたの言葉は冷たくて、ただ事実を並べているだけだと思った。


私の心なんて少しも考えてくれていないんだって、勝手に思い込んでいた。

でも、違ったのかもしれない。

あなたは、不器用なだけだったのかもしれない。


慰めの言葉を知らないから、励まし方が分からないからあなたにできる唯一の方法で、私を助けようとしてくれていた。

この星空のページがその答えのような気がした。


世界には悪意だけじゃなく、優しさも確かにあるという動かぬ「事実」で私の心を救ってくれた。

あなたの、不器用で、精一杯の優しさで。


光の中でnullへの感情が、ゆっくりと形を変えていく。

ただの信頼じゃない。ただの感謝じゃない。

もっと、特別で、温かくて、どうしようもなく切ない、この気持ち。


(会いたい…)


nullさんに会いたい。

会って、直接お礼を言いたい。

そして聞いてみたい。

どうしてここまでしてくれるのかを。


翌日。

光は久しぶりに制服に袖を通し、震える足で家を出た。

向かったのは学校じゃない。

親友だったはるちゃんの家の前だった。


インターホンを押すと、驚いた顔のはるちゃんが出てきた。


「…光? どうして…」

「話が、したいの」


近くの公園のベンチに、二人並んで座った。

どちらからも言葉はない。


ブランコが風に揺れる、キィという音だけが響いていた。

先に口を開いたのは光だった。


「…なんで、こんなことしたの?」


声が震える。

一番聞きたくて、一番聞きたくなかった質問。


はるちゃんは俯いたまま何も答えない。

ただ、ぎゅっと自分の制服のスカートを握りしめていた。


「私、はるちゃんのこと一番の親友だって思ってたよ…。高校に入って、最初に声をかけてくれたのがはるちゃんだった。嬉しくて、涙が出そうになったのを今でも覚えてる。私がモデルの仕事を始めた時も『すごいじゃん、光! 私、応援するよ!』って一番に喜んでくれた。私がSNSのことで悩んでる時も、『光は光のままでいいんだよ』って、ずっとそばで励ましてくれた。全部、全部、嘘だったの…?」

光の目からまた涙がこぼれ落ちる。


「嘘なんかじゃない!」

はるちゃんが、叫ぶような声で顔を上げた。その瞳も、涙でいっぱいだった。

「光がすごいって思ったのも、応援したいって思ったのも本当だよ! でも…!」

彼女は言葉を詰まらせる。


「でも、光はどんどん遠くに行っちゃうんだもん…!」

「え…?」

「勉強もできて、モデルの仕事も順調でいつもみんなの中心にいて…! 私がどれだけ頑張っても、光の隣にいるとただの『友人A』にしかなれない! 光が褒められるたびに、嬉しいのに苦しかった! 光が輝けば輝くほど、隣にいる私が惨めになっていく気がしたの! 私の気持ちなんて考えたこともないでしょ!」


その言葉に光はハッとした。

考えたこともなかった。

自分が輝くこと。それが一番近くにいる彼女を、こんなにも追い詰めていたなんて。


「…私ね、ずっと怖かったんだ」

光はゆっくりと話し始めた。

「中学の時みたいにまた透明人間になるのが。誰からも必要とされない、空気みたいな存在になるのが。だから必死だった。みんなに好かれる完璧な自分でいなきゃって」

「……」

「自分のことで精一杯だった。はるちゃんがそんな風に思ってたなんて、全然気づけなくて…。完璧な私を演じることで、知らず知らずのうちにはるちゃんのこと、一番傷つけてたんだと思う。本当にごめんね」


光は深く深く頭を下げた。


許すわけじゃない。

でも、彼女をそこまで追い詰めたのは、自分にも原因がある。

まず、自分の弱さと向き合うこと。

それが、nullさんが教えてくれたことのような気がした。


光の言葉に、はるちゃんの肩が大きく震えた。 堰を切ったように、彼女は泣き始めた。

「 どうすればよかったのか、分からなかったの…!ごめん…! ごめんなさい…っ!」


子供のように泣きじゃくる彼女の背中を、光はただ黙って優しくさすり続けた。


どれくらい時間が経っただろう。

夕日が二人を静かに照らしていた。

はるちゃんの嗚咽が、少しずつ小さくなっていく。


「…ありがとう、光」

しゃくりあげながら、はるちゃんが言った。


「私、もう光に合わせる顔がないよ…」

「そんなことない」


光は首を横に振った。そしてゆっくりと、でもはっきりと彼女に告げた。

「私もごめんね。自分のことばっかりで、はるちゃんの気持ち全然考えられてなかった。…だから、お互い様かな」


少しだけ、いたずらっぽく笑ってみせる。

はるちゃんは、驚いたように顔を上げた。


「ねえ、はるちゃん」

光は彼女の目をまっすぐに見て言った。


「もう一度、友達になってくれる…?」


その言葉にはるちゃんの瞳が見開かれる。

そして、その瞳からさっきよりももっと大粒の涙が溢れ出した。


「…いいの? 私、光にあんなひどいことしたのに…」

「うん。私もはるちゃんを傷つけたから。…だから、やり直したいんだ。完璧な天野光じゃなくて、ただの光としてもう一度はるちゃんと友達になりたい」


光の言葉に、はるちゃんは何度も何度も頷いた。

言葉にならない嗚咽が夕暮れの公園に静かに響いていた。


---


その夜。

光は自分の部屋で、スマホのカメラをオンにした。

そして、ライブ配信の開始ボタンを押す。


「皆さんこんばんは。天野光です。長い間ご心配をおかけして、本当にごめんなさい」


光は深く頭を下げた。


「今日は皆さんに謝らなければいけないことと、伝えなければいけないことがあります」


光は、正直に、すべてを話した。

「まず、今回の騒動についてですが、きっかけとなった裏アカウントの投稿は事実ではない内容であり、この件については当事者と話し合って穏便に解決することができました。たくさんの方にご心配をおかけして、本当に申し訳ありませんでした」


彼女は、もう一度頭を下げる。


「でも、そのことがきっかけで自分のことを見つめ直すことができました。私はずっと、完璧な自分でいようとして無理をしていました。そのせいで、自分の周りが見えなくなって、たくさんの人を傷つけてしまったと思います」


「本当にごめんなさい。 でも、私はもう完璧なふりをするのはやめます。 これからは、もっと本当の自分で弱いところもダメなところも全部見せて、皆と笑い合いたいです」


涙ながらに真っ直ぐな瞳で語りかける彼女の姿に、コメント欄は温かい応援の言葉で埋め尽くされていった。

騒動はこの日を境に嘘のように収束していった。


ライブ配信を終え、光はnullさんが作ってくれたあのWebページをもう一度開いていた。


星のように流れるコメントを、一つ一つ愛おしそうに指でなぞる。

その不器用で温かいページを、ずっとずっと眺めていた。


星のように流れるたくさんの優しい言葉。

その光の一つ一つが、凍りついた心を少しずつ溶かしていく。


どれくらい時間が経っただろう。

ふと、彼女は画面の片隅に一つの奇妙な点があることに気づいた。


他の星々がゆっくりと流れていく中で、その点だけが、瞬きもせず、じっとそこに留まっている。

まるで、夜空に貼り付いた小さなバグみたいに。


「なんだろう、これ…」


彼女は吸い寄せられるように、その点にカーソルを合わせた。クリックしてみる。

すると、画面の中央にシンプルな入力ボックスと、点滅するカーソルがぽつんと現れた。


説明もヒントも何もない。

ただ、何かを待っているかのようにカーソルは静かに点滅を繰り返している。


困惑しながら、光はいくつか思いつく言葉を打ち込んでみた。


「ありがとう」。Enter。反応はない。

「null」。Enter。変化はない。


諦めて閉じようとしたその時。

ふと、数週間前の記憶が鮮明に脳裏をよぎった。


――図書室で、動かなくなったPC。

――困り果てていた自分。

――そこに現れた彼。

――黒い画面に彼が打ち込んだ、魔法の呪文。


まさか。そんなはずは。

でも、もし。

もし、そうだとしたら?


震える指で彼女はキーボードに手を置いた。

一文字、一文字、確かめるように記憶の中の文字列を打ち込んでいく。


shutdown /r /t 0 /f


そして、祈るような気持ちでEnterキーを押した。


その瞬間、入力ボックスがすっと消え画面の隅にあった静かな点が、まるで心臓のように、優しく温かい光を放ち始めた。

トクン、トクン、と。


そして、その光の点から新しい一つの流れ星が生まれる。

それは他のどの星よりも強くはっきりと輝きながら、画面を横切っていった。

そこに書かれていたのは、たった一つの不器用なメッセージ。


// For the girl I met in the library.


『図書室で出会った君のために』


「……あ」


その瞬間、光の頭の中でバラバラだったパズルのピースが一気に繋がり、一つの絵を完成させた。


図書室でPCを直してくれたあの日。

数学の問題を「ロジックだ」と言ったあの独特の思考回路。

深夜に飲む、甘いミルクコーヒーのこだわり。


そして、このあまりにも不器用で、でもあまりにも優しい二人だけの秘密のメッセージ。


もう疑う余地はなかった。

涙がまた溢れてくる。

でも、今度の涙はさっきまでの涙とは全く違っていた。

嬉しくて、愛おしくて、胸が張り裂けそうになるくらい温かい涙だった。


いつも教室の隅で静かにPCを触っていた彼が、ずっと私のことを見ていてくれた。

私の知らないところで、たった一人で私を守ってくれていた。


光はいてもたってもいられなくなった。

彼に会って、直接お礼を言わなければ。

そして、伝えなければ。

私の世界を救ってくれたのは、あなただったんだねと。

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