第50話:黒き語り火、神語に届かぬ祈り

祝祭の夜が明け、語られぬアムナスは新しい朝を迎えた。


焚火の跡はまだ温かく、そこかしこに眠り込んだ影たちが寄り添い合っていた。

その姿は、神語が編むどんな神話よりも静かで穏やかな物語に見えた。


骸記ノ者は黒い芽を胸に抱き、そっと歩き出す。


リクは剣を片手に、少し遅れてその後をついてくる。


「この国……少しずつだけど、本当に変わったな。」


骸記ノ者は頷いた。


「神語に縛られず、互いに語り合って笑える場所。

ここはもう、神の記録から外れた“物語の外側”だ。」


エノは小さな花を摘みながら、黒い芽を覗き込む。


「でも……神語はこれを許さないんでしょ?」


「そうだ。」


骸記ノ者は黒い芽にそっと触れる。


「だから芽をもっと強くしなければならない。

神語に届かないこの声を、この芽にもっと刻むんだ。」


 



広場に戻ると、影たちが焚火の跡を囲みながら静かに座っていた。


彼らは何も語らず、ただ火のない焚火をじっと見つめている。


骸記ノ者はその中に歩み寄り、膝をついた。


「……語ってくれ。」


影たちは顔を上げる。


「名前も、形も、物語もいらない。

ただお前たちの声を、この芽に注いでくれ。」


小さな影が、おずおずと手を上げた。


そして震える声で言った。


「……わたしは……

誰にも名前を呼ばれなかった。

でも……ここにいて、いいの?」


骸記ノ者は強く頷いた。


「いいとも。

ここはお前の国だ。」


 



その言葉に、周りの影たちが次々に声をあげ始めた。


「……ここに……いたい……」


「……もう神語に名前を付けられたくない……」


「……わたしは……わたしで……いたい……」


その声は黒い芽に吸い込まれ、小さく脈動が増していく。


芽は淡い黒光を放ち、その光は焚火の跡にそっと染み込み、再び小さな炎を灯した。


その炎は神語の火ではなかった。

祝詞も賛歌もない、ただ影たちの祈りが集まって揺らぐ火。


それが語られぬ国の、新しい“語り火”だった。


 



リクはその焚火のそばに腰を下ろし、剣を脇に置いて言った。


「この火がある限り、俺はここで剣を振るう。」


エノは微笑み、骸記ノ者の隣に座る。


「わたしは……この火のそばでずっと語るよ。

あなたたちがここにいたって、いつまでも語り続ける。」


骸記ノ者は黒い芽を焚火にかざし、静かに呟く。


「神語に届かなくていい。

この火は俺たちの火だ。

ここにいる声を燃やし続ける限り、神の記録にならなくても、俺たちは消えない。」


焚火がぱちりと弾け、小さな火の粉が影たちの間に舞った。


誰もがその火を見つめ、声もなく笑った。


それは神語の祭壇では決して許されぬ、穢れた祝福。


だがこの国では、それこそがもっとも尊い祈りだった。

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