【承乃】


オフィスの冷たい空気を引きずったまま、わたしは重い足取りで駅へ向かっていた。夕暮れの街は、蛍光灯の光と人々の喧騒で溢れているはずなのに、わたしの視界は薄い膜に覆われているかのようだ。すべてが遠く、非現実的に霞んで見えた。瑤晶が語った真実が、鉛の塊となってわたしの胸に伸し掛る。


「一ヶ月以内には、必ず死亡する」


その言葉が、耳の奥で、恐ろしい反響を繰り返していた。佳莉がいなくなる。電話がかかってきたら終わりだ。

わたしにもいつ電話が来るか分からない。

わたしの心臓は容赦なく締め付けられていた。そして、その次の瞬間には、わたしの脳裏に恐ろしい問いが再び浮かび上がった。

次は、わたしの番ではないだろうか。

この会社に潜む見えない法則が、次回は知ってしまったわたしを標的にするのではないだろうか。

底知れない恐怖が、わたしの全身を支配した。

足が、不意にその場に縫い付けられたように止まった。アスファルトの冷たさが、靴底を通してじわりと伝わる。絶望が、波のように押し寄せ、呼吸が浅くなる。このままでは、わたしの内側にある何かが、粉々に砕け散ってしまう。そうなる前に、どこか安全な場所にゆかなければならない。安全な場所などあるわけがない。そんなことはわかっているが、このままでは居られない。


震える手で、スマートフォンを取り出した。画面の明るさが、わたしの青ざめた顔を照らす。思考は混乱し、指先は意図に反して震え続ける。一体、誰に、何を話せば良いのだろうか。この常軌を逸した真実を、誰が信じてくれるだろう。

しかし、その時、脳裏に一つの名前が浮かんだ。母だ。

わたしは、震える指で、母とのトーク画面を開いた。そして、メッセージの履歴を遡る。そこには、何気ない日常の会話が並んでいる。その何気なさが、今のわたしの状況とあまりに対照的で、胸が締め付けられた。

だが、迷う時間はなかった。迫ってくる六月九日の切迫感が、わたしを突き動かし、スマートフォンを触った。

指が、文字を打ち始める。震える指は、何度も誤入力を繰り返すが、わたしは構わず、頭の中に浮かんだ言葉を羅列していった。

「聞いてほしいことがあるの」

「会社が、おかしい」

「佳莉ちゃんが、いなくなった。辞めさせられた」

「部長に理由は、教えてもらえなかった」

「でも、瑤晶さんが、教えてくれた」

「毎月九日には、苗村眞鏡から電話がかかってくる」

「電話がかかった人は、すぐに会社を辞めさせられる」

「そして、一ヶ月以内に、死ぬんだって」

「佳莉も、死んじゃう」

「わたしも、怖い。次、わたしにかかってくるかもしれない」

「パパにも、このこと、伝えてほしい」

「助けて」

乱雑な文章。誤字脱字。

しかし、わたしの内側にある切迫した感情は、そのまま文字に乗せられたはずだ。送信ボタンを押す指が、最後の力を振り絞るように、強く画面を叩いた。メッセージは、瞬く間に光の粒となって、母へと送られてゆく。

返信を待つ間もなく、わたしは駅へと駆け出した。冷たい風が頬を叩き、目が潤む。しかし、涙を流す余裕はなかった。一秒でも早く、ここから離れなければいけない。この会社から、この街から、逃げ出さなければ。

会社にいかなくても変わらないのに本能がそう訴えた。


ホームに滑り込んできた電車は、故郷に向かう最終列車だった。危機一髪という感覚でため息を着くが、そんな場合では無いと思い、扉が開くと、わたしはまるで吸い込まれるように、その中に飛び込んだ。

座席に身を沈めると、どっと疲労が押し寄せてくる。身体中の力が抜け落ち、呼吸が乱れる。

窓の外を流れる景色は、あっという間に見慣れた街の明かりから、闇に変わってゆく。電車の揺れが、わたしの心をさらに揺さぶる。このまま、すべてを置いて、遠くへ逃げてしまいたい。この会社が抱える闇から、あの恐ろしい「法則」から、永遠に目を背けてしまいたい。

だが、脳裏には、瑤晶の言葉が繰り返し響く。

「苗村眞鏡から電話がかかってきた人は、一ヶ月以内には、必ず死亡する」そして、「苗村眞鏡の正体は、誰にも分からない。ただ、昔亡くなった上司は、咳が苗村に呪われた証だと話してたけど……真偽は定かじゃない」


それと一文字しか違わない苗字と名前を持つ眞絢。その偶然が、今は不吉な必然としてわたしの心に深く刻み込まれている。眞絢は、この恐ろしい「法則」について、何を知っているのだろうか。彼女もまた、この会社の犠牲者なのか。それとも……。


思考は、堂々巡りを続ける。わたしは、この会社で何を見てしまったのだろう。これは、ただの悪夢なのか。いや、そんなはずがない。これは嫌な程にはっきりとした現実だ。


それならこの世界に、本当に人智を超えた恐ろしい存在がいるというのだろうか。


電車の窓に映る自分の顔は、ひどく青ざめ、目には深い絶望が宿っている。このまま実家に戻ったとして、母は、父は、わたしの言葉を信じてくれるだろうか。きっと、信じないだろう。疲れて気が滅入っているだけだと、笑い飛ばすかもしれない。そう思うと、胸の奥がさらに締め付けられた。

それでも、わたしは故郷へ向かっていた。電車は止まらない。立ち上がることも出来なかった。

実家は安堵できる場所のはずだ。

だが、あの「法則」が、実家にいてまでも、わたしを追いかけて来るかもしれない。

不安と恐怖が、わたしを再び包み込む。ただ悪夢のような現実の中で、わたしはただ、この電車の揺れに身を委ねている。

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