《シーン7》
【承乃】
────電車の規則的な揺れと、張り詰めていた心が限界を超えた安堵感の中で、気づけばわたしは深い眠りに落ちていた。
意識が闇の底に沈んでゆくような感覚に囚われたと思えば、意識が遠のき、瞼が重くなる。思考が纏まらなくなり、視界が黒く染った。
夢を見ることもなく、ただひたすらに、深い深い場所に向かっている。あの会社の悪夢も、苗村眞鏡の呪いも、すべてが遠く、届かない場所に消え去ってゆく。
だが、起きればこの微睡みの平和も消えてしまう。
絶望が襲ったが、直ぐにそれも遠のいてゆく。
目覚めれば、全てが昨日までの日常に戻っている。そう信じようと努力した。
「次は、阿地……阿地……」
ハッとする。
わたしの実家の最寄り駅の名前が読み上げられる。
降りなくては。
どうにか身体を起こし、蹌きながら、ホームに辿り着いた。
目を擦り、意識をどうにか現実に繋ぎ止める。
だが、意識の覚醒と同時に苗村のことも思い出され、急に不安に襲われた。
わたしは早く家にたどり着こうと、走るようにして、駅を飛び出し家まで走った。
家に着くと、急いで布団に倒れ込む。
何か考える時間もなく、直ぐに意識は遠のき、気づけばわたしは眠っていた。
朝日が、カーテンの隙間から細く差し込み、わたしの頬を優しく撫でる。目覚めは、驚くほど穏やかだった。身体の重さも、心の軋みも、昨夜、両親に連絡するまでのそれとは比べ物にならないほど軽やかだ。
もしかしたら、すべては悪夢だったのかもしれない。
そう、一瞬でも思ってしまえるほどに、朝の光は希望に満ちていた。
しかし、その穏やかな感覚は、すぐに違和感へと変わる。リビングから、通常の朝の音が聞こえないのだ。
父が新聞をめくる乾いた音も、母が、朝食の準備をする食器の触れ合う音も、コーヒーメーカーの微かな稼働音も。
それらすべてが、今日は存在しないと思わせるほどに完全に消え去っていた。
遅いな、とわたしは呑気に思う。
普段なら、この時間にはとっくに起きて、リビングでそれぞれの朝を過ごしているはずだ。
昨夜、わたしが打ち明けたあまりにも荒唐無稽な話に、二人は戸惑いながらも、真剣に電話口で耳を傾けてくれた。
そして、最終的には「承乃がそんなに言うなら、信じるよ」と、父が力強く言ってくれたのだ。その言葉が、どれほどわたしの心を救ってくれたか。
だからこそ、今朝はゆっくり眠っているのだろう。無理もない。
両親も疲れているのであろう。
わたしは、寝ぼけ眼を擦りながら、リビングへと向かう。しかし、やはり、そこには誰もいない。テーブルの上は綺麗に片付けられ、朝食の準備がされた形跡もない。不穏な静寂が、家全体を支配している。心臓の奥で、微かな警鐘が鳴り響いた。何か、いつもと違う。
身体が、ゆっくりと硬直してゆく。
一歩を踏み出すたびに、足音が家中に響き渡る。その音さえも、わたしを責め立てる不吉な音響に聞こえた。キッチン、洗面所、どこを探しても二人の姿はない。そして、わたしの足は、無意識のうちに両親の寝室へ向かっていた。
扉は、僅かに開いている。その隙間から覗く部屋の中は、薄暗い。朝の光が届かないのか。
あるいは、何か別の闇が満ちているのか。
息を呑む。喉が乾き、全身の毛穴が開くような悪寒が背中を這い上がってきた。
震える手で、扉をばっと素早く押し開く。軋む蝶番の音が、異様に大きく響き渡り、わたしの鼓膜を震わせた。部屋の中は、信じられないほどの静寂に包まれている。まるで、そこに時間が存在しないかのようだ。
ベッドの上には、二つの人影が横たわっていた。父と母だ。毛布が首元までかけられ、二人は穏やかな眠りについているように見えた。その姿に、一瞬、胸を撫で下ろす。よかった。ただ、深く眠っていただけなのだ。
わたしは、安堵の息を漏らしながら、ベッドに近づいた。しかし、その足取りは、なぜか重く、わたしの心臓は不規則なリズムで激しく脈打っていた。近づけば近づくほど、部屋の空気が、異常なほど冷たくなってゆくのを感じる。肌が粟立ち、全身の産毛が逆立つ。
そして、ベッドの傍らまで来た時、その光景は、わたしの目に飛び込んできた。
母の顔。
穏やかな寝顔のはずなのに、そこには、血の気が失われたかのような蒼白さが広がっていた。唇は、うっすらと開かれ、呼吸をしている形跡がない。胸元に視線を落とすが、そこが上下する気配は微塵もない。
「ま、ママ……?」
震える声で呼びかけるが、何の返事もない。手を伸ばし、母の頬に触れる。その肌は、まるで氷のように冷たかった。そして、石のように硬く、強ばっていた。
信じられない。信じたくない。
わたしの視線は、隣に横たわる父に移る。父もまた、母と同じだった。蒼白な顔。開いたままの唇。そして、動かない胸元。
「パパ……!ママ……!」
声を振り絞るが、言葉にならない。絶叫が、喉の奥で詰まり、音として発することができない。両親の顔を交互に見つめる。彼らは、まるで生きているかのような穏やかな表情を保っていた。だが、目は固く閉ざされ、ひらく気配もない。
動かない。息をしていない。
その事実が、脳髄に稲妻のように走り抜ける。膝から力が抜け、わたしはベッドの傍らに、ずるずると崩れ落ちた。身体が、激しく震え始める。それは、寒さでも、恐怖でもなく、ただただ、この不条理な現実を受け入れられない、わたしの心の叫びのようだ。
昨夜、わたしの言葉を信じてくれた両親。
わたしの避難場所となってくれたはずの場所が、今、死の静寂に包まれている。
苗村眞鏡。あの会社の呪い。それが、両親にまで及んでしまったのだろうか。
思考は混乱し、記憶は霧散してゆく。
ただ、脳裏には、瑤晶が語った言葉が、血のように赤く、鮮明に焼き付いている。
「電話がかかってきた者は、一ヶ月以内には、必ず死亡する」
そして、もう一つ。あの会社の人間が、咳が呪われた証だと話していたと言っていた。
その時、わたしの耳の奥で、微かな音が聞こえた気がした。
ゴホッ……ゴホッ……。
それは、まるで両親の喉から漏れたかのような、乾いた咳の音であった。
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