【承乃】

瑤晶の沈黙が、重く部屋にのしかかる。わたしは彼女の言葉の裏に隠された真実を知りたい。納得できないまま、佳莉の消失を受け入れることなど出来ない。

彼女の視線に、わたしと同じ、いやそれ以上の諦めと悲しみが宿っているのを見て、わたしはさらに食い下がってしまった。彼女には申し訳ないと思う。

本当に聞いて良いのかは分からないが、どうしても気になる。

何がそこまで彼女を沈黙させるのだろうか。その先に、わたしの知らない、この会社の最も深い闇が横たわっているのだとしても、もう引き返すことはできなくなっていた。

脳は警笛を鳴らしているのに。


「承乃ちゃん……、本当に知りたいの?」



瑤晶の声が、微かに震えた。その問いは、まるで未知の扉を開く前の最後の警告のように、わたしを逡巡させる。

それでも、わたしは躊躇なく頷いた。知りたい。やはり、自分の命が惜しい。恐怖を避けることよりも、命を摂ることにした。

彼女は深く息を吸い込み、重い口を開けた。

やはり、聞かなければよかったかと、一瞬思う。


「毎月九日。九日は、この会社にとって、特別な意味を持つ日なの」


紡ぎ出される言葉が、刃物のように、わたしの胸を寸断してゆく。

毎月九日。

愛鶯も、眞絢も、わたしも、不穏な空気を感じ取っていた五月9日もそうだ。しかし、それが具体的な「意味」を持つとは、想像もしなかった。二人に話すか、逡巡しているうちに、瑤晶が口を開いた。


「あの電話は……苗村眞鏡からかかってくるんだよ」


苗村眞鏡。その名を聞いた瞬間、わたしの脳裏に、佳莉が電話口で口にした名前が鮮明に蘇った。そして、同時に、眞絢と酷似する苗字と名前の響きが、不吉な連鎖のように頭の中を駆け巡る。偶然だと思っていたその類似性が、今、目の前で紡がれる言葉によって、恐ろしい必然へ変貌してゆく。



「苗村眞鏡から電話がかかってきた人は……その日のうちに、無理やり退職させられる。理由も告げられずにね。佳莉さんがそうだったようにね」


瑤晶の言葉が、わたしの心臓を鷲掴みにする。佳莉の退職が、この会社の「法則」に基づいたものだと知った瞬間、理解不能だった点と点が、悪意ある線で繋がり始めた。

あの部長の冷徹な言葉。

私物が跡形もなく消え去っていたデスク。

すべてが、この不条理な「法則」の通りに行われていたのだ。

瑤晶の顔色が、さらに蒼白になるのがわかる。彼女の声が、震えを増してゆく。


「それで……電話がかかってきた者は、一ヶ月以内には、必ず死亡する」


その言葉が、わたしの鼓膜を震わせた瞬間、わたしの世界は、音を立てて崩れ落ちた。絶望が、冷たい泥のようにわたしの全身を包み込み、身動き一つ取れなくする。

佳莉が、死ぬ。

残酷な真実が、わたしの五感を麻痺させていた。血の気が引き、指先が凍りつく。目の前で瑤晶の顔が歪み、空間全体が歪曲してゆくような錯覚に襲われた。


「苗村眞鏡の正体は、誰にも分からない。人間なのか、そうじゃないのか……ただ、昔、亡くなった上司が、咳が苗村に呪われた証だと話してたけど……真偽は定かじゃない」


瑤晶さの言葉は、もはや遠い幻聴のようにしか聞こえなかった。

苗村眞鏡の正体も。咳と死の関連も。

すべてが、あまりにも突飛で悍ましい。しかし、わたしの目の前で繰り広げられた佳莉の消失が、この荒唐無稽な話を、冷徹な現実のようにわたしに突きつける。

わたしは、絶望の最中に立たされていた。佳莉は、希望に満ちた未来を目前にしながら、この会社の暗部に飲み込まれた。そして、一ヶ月以内には、この世から消え去る。


そして、その絶望は、すぐにわたし自身の身にも降りかかるのではないかという、深い恐怖に変貌した。

わたしは、真実を知ってしまった。

この「法則」や「呪い」を、目の当たりにしてしまった。次は、わたしの番ではないか。

この会社に囚われた者として、いつか、あの苗村眞鏡からの電話が、わたしの携帯電話を震わせる日が来るのではないだろうか。


身体の奥底から、耐え難い震えが湧き上がってくる。寒さや恐怖によるものだけではない。わたしの存在そのものが、この会社の恐ろしい法則に絡め取られてしまっていることへの、抗えない絶望の震えである。息が詰まる。肺が酸素を求めるように苦痛に痙攣する。

瑤晶の表情が、憐れみと、深い疲弊を帯びていた。彼女もまた、この地獄の中で、どれほどの時間、この真実を抱えて生きてきたのだろうか。彼女の沈黙の裏にあった重みが、わたし自身の心を締め付けている。

どうしたらよいのだろう。にげられない。退職も理由をつけられ、拒まれると彼女は付け足した。

休職しても無駄だ。就職試験に受かってしまった時からこの運命は決まっていたのである。


オフィス全体が、巨大な墓標のように感じられた。キーボードの打鍵音も、電話の呼び出し音も、すべてが不気味な囁きのように聞こえる。この会社は、生きた人間を飲み込み、誰にも知られずに殺してゆく場所なのだ。わたしは、その悍ましい真実を、知ってしまった。

わたしの未来は、すでに閉ざされている。この会社にいる限り、わたしは「九日」の恐怖から逃れることはできない。そして、いつか、苗村眞鏡からの電話が、わたしを死へ誘う日が来るのだろう。

絶望が、わたしの全身を浸食してゆく。

逃れる術はない。抗う力もない。わたしはただ、この場所で、来るべき破滅を待つしかないのだろうか。その問いは、深い闇の中に吸い込まれ、答えを見つけることはできなかった。

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