《シーン6》
【承乃】
重く湿った空気が、わたしの肺腑にまとわりつく。佳莉が消えてから、わたしの心に穴が空いたように、やけに静まり返っている。かつての騒がしさが嘘のように消え去り、凍りつくような沈黙が、わたしを満たしていた。誰もが口を噤み、ただ目の前のモニターを見つめるばかりで、わたしを他所に時は流れてゆく。
わたしは、この息苦しい沈黙の中で、まるで溺れているようだ。
理由の分からないまま、友人が消え去る。不条理だ。わたしの精神がじわじわと蝕ばまれてゆく。このままではいけない。この会社の深い闇に、わたし自身も飲み込まれてしまう。そうなる前に、真実を知り、対策をしなければならない。だが、誰に尋ねればよいのだろうか。新人のわたしには、この会社に潜む見えない壁の、どこに突破口があるのか皆目見当もつかない。愛鶯や眞絢に聞いても分からないだろう。二人とも首を傾げていたのを思い出す。
ふと、視線の先に、瑤晶の背中を捉えた。
彼女は、わたしの少し前まで教育係を務めてくれた社員である。新人であるわたしにも、常に穏やかに接し、仕事の厳しさと面白さを教えてくれた。彼女は、この会社に七年とかなり長く勤めている。ベテランというにはまだ若いが、間違いなく、この場所の「作法」を理解している人間だ。彼女ならば、この異常な状況について、何か知っているかもしれない。
胸の高鳴りが止まらない。しかし、同時に、大きな不安が押し寄せる。もし、わたしがこの件について尋ねれば、佳莉と同じように、わたしもまたこの会社から排除されてしまうのではないか。そんな根拠のない恐怖が、わたしの心を縛り付けた。だが、このまま沈黙を続けることは、さらなる絶望へとわたしを追い込むだけだ。わたしは、意を決して立ち上がった。
わたしの足音は、まるでフロアの静寂を破る罪悪のように、大きく響いた。
瑤晶のデスクに近づくにつれ、わたしの心臓は激しく脈打つ。彼女は、モニターに視線を落としたまま、キーボードを叩いていた。その背中は、いつもと変わらぬ、どこか達観したような佇まいだ。聞いても良いのかもしれない。
「瑤晶さん……」
震える声で呼びかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。その顔には、疲労の色が深く刻まれている。
やはり、この会社は社員をすり減らす場所だ。
わたしの顔を見ると、彼女は微かに微笑んだ。
いつ切り出すか、瞬時に思考をめぐらせる。
「どうしたの、承乃ちゃん」
彼女の声は、普段と変わらぬ穏やかさで、わたしに問うた。だが、彼女の声の奥に、何か深い悲しみが隠されているように感じられたのは、わたしの気のせいだろうか。
わたしは、言葉を選ぶ。あまりに直接的な問いは、彼女を困らせるかもしれない。あるいは、わたし自身を危険に晒すかもしれない。
「あの……佳莉のことなんですけど……」
わたしの口から出た名前に、瑤晶の表情が、一瞬だけ硬直した。そして、彼女の瞳孔の奥に、何かを隠すような、警戒の色が浮かんだのを、わたしは確かに見た。だが、それはすぐに消え去り、再び穏やかな表情に戻る。
「……何かあったの?」
彼女の声は、やはり穏やかだ。しかし、その問いかけは、まるで何も知らないふりをしているかのようだ。彼女が知らないはずがない。この会社で何が起こっているのか、知っているはずだ。この不条理な出来事のすべてを教えてくれるはずだ。
「佳莉は……どうして急に、会社を辞めてしまったんでしょうか。部長は、理由を教えてくれないし……」
わたしは、絞り出すように言葉を続けた。わたしの声は、懇願するように響いていた。真実を知りたい。この混乱から抜け出したい。その一心だった。
瑤晶は、深く息を吐く。重い溜息が、静かなオフィスに吸い込まれていった。彼女は、再びモニターに視線を落とし、暫く沈黙している。沈黙が、わたしにとって、途方もなく長い時間に感じられた。秒針の音が、耳の奥で、異様に大きく響く。
やがて、彼女は顔を上げ、わたしの目をまっすぐに見つめた。彼女の眼差しは、穏やかでありながらも、どこか諦めに似た、深い悲しみを宿しているが、作り笑いが張り付いている。
「承乃ちゃん……この会社には、色々なことがあるの。承乃ちゃんも、もう少し長くここにいれば、きっとわかるようになるよ……」
その言葉は、まるで煙のように掴みどころがない。わたしを安心させようとしているのか。それとも、遠回しに、これ以上詮索するなと警告しているのか。そのどちらでもない、深い意味が込められているように感じられた。まるで、この会社が抱える「闇」の深さを、彼女が知り尽くしているかのような響きだ。
「でも……理由が分からないままなんて、納得できません」
わたしは、なおも食い下がった。納得できない。このままでは、わたしの心は、永遠に安らぎを得ることができないだろう。
それでも瑤晶は、再び深く息を吐き、首を横に振った。やはり彼女の動作には、抗うことのできない運命を受け入れているかのような、諦観の色が滲んでいる。
知っては行けないことだということは、既に判った。
「納得できることばかりじゃないのよ、世の中は。特に、この会社ではね」
彼女の声は、どこか遠い響きを持っている。まるで、わたしとは違う次元で、別の現実を生きているかのように。
その言葉は、わたしを突き放すようでありながら、同時に、深い哀愁を帯びているようでもあった。彼女もまた、この会社の理不尽な暗部に、深く囚われている一人なのだということが、その表情から痛いほど伝わってくる。
「佳莉さんは、もう戻ってこない。それだけは、本当のことなの。」
わたしの心臓が、一気に重くなった。彼女の言葉には、一切の曖昧さがなく、やはり事実だと示している。それは、抗うことのできない、冷徹な事実として、わたしの胸に突き刺さった。わたしは、瑤晶から、佳莉が辞めた具体的な理由を聞き出すことはできないのかもしれない。彼女は、おそらく、知っているのだろう。しかし、それをわたしに話すことはできないのだ。話してはいけないのだ。
わたしは、その場に立ち尽くしたまま、言葉を失った。瑶晶の目の奥に、わたしと同じ、いや、それ以上の深い恐怖と諦めが宿っているのが見えた。この会社は、社員の口を、そして心を縛り付ける、見えない鎖を持っている。わたしは、その鎖の存在を、今、この瞬間に、はっきりと悟った。
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