【佳莉】

重い扉が背後で閉まる音と共に、わたしは自室の玄関に立っていた。慣れ親しんだはずの空間が、しかし、ひどく歪んで見える。外の光が届かぬ廊下は、まるで深い海の底のように暗く、冷たい。足元から這い上がるような虚無感が、わたしの全身を包み込んだ。鉛を流し込まれたかのような足が、一歩を踏み出すことさえ拒む。

怒り、困惑、途方もない絶望。あらゆる感情がわたしの内側で渦を巻き、頭の中はひどい熱を帯びていた。

なぜ、こんなことになったのだろうか。

なぜ、わたしが……。

問うても問うても、答えはどこにも見つからない。部長の冷徹な声が、耳の奥で反響する。

「理由は説明できません」

「これは決定事項です」


あの機械的な言葉の羅列が、わたしの存在そのものを否定しているようだ。

玄関の狭い空間に、わたしは座り込んだ。冷たい床の感触が、僅かに現実との繋がりを保たせる。膝を抱え、顔を埋めた。

呼吸が乱れ、肩が震える。この震えは、身体の冷えによるものか、あるいは、内側から噴き出す怒りの震えか。その区別すら、もはやいまは定かではない。


わたしには、生活がある。積み重ねてきた努力がある。ようやく手に入れた、社会での居場所も。それらすべてが、たった数時間の間に、無慈悲に奪われた。まるで、存在しなかったかのように、跡形もなく消し去られた。あの会社の人間たちは、わたしの人生を、何だと考えているのだろう。簡単に捨て去ることのできる、取るに足らないものだとでも言うのだろうか。

拳を握りしめる。爪が手のひらに食い込み、痛みが走る。

理不尽な怒りが、胸の奥で溶岩のように煮えたぎる。なぜ、わたしは反論できなかったのだろうか。なぜ、あの場で、もっと強く抵抗しなかったのだろうか。後悔と自責の念が、怒りに拍車をかける。

だが、それも今戻ったとして絶対にできない。

わたしの脳裏には、張り詰めた空気の中に響いた電話の呼び出し音が、執拗に響き渡っていた。

ピリリリ、ピリリリ。


そして、「非表示」と表示された画面が目の前によぎる。

勝手に繋がった通話。

耳に届いた、友人の眞鏡の声。

あの時、一瞬でも安堵してしまった自分が許せない。あの電話が、わたしの運命を決定づけたのかもしれない。そう思うと、言いようのない悪寒が全身を駆け巡る。

眞鏡まみ

友人の名を口に出してみる。だが、その顔が、ひどく曖昧だ。どんな顔をしていたか、どんな声で笑ったか、やはりまるで思い出せない。記憶の輪郭が、霧のようにぼやけている。電話の声もたった数時間前のことだというのに、まるで遠い過去の出来事のように感じられる。

わたしの記憶が、会社によって、意図的に改竄されているのではないか。そんな馬鹿げた疑念さえも、今は現実味を帯びて感じられた。


わたしは立ち上がろうとするが、足に力が入らない。膝が笑い、そのままずるりと床に座り込む。壁に背を預け、天井を仰いだ。そこにあるのは、見慣れたはずの白い天井だった。だが、それすらも、どこか不確かで、今にも崩れ落ちてきそうに見える。

なぜ、わたしなのだろう。この不条理の標的が、なぜわたしだったのか。あの会社の誰にも、恨まれるような覚えはない。むしろ、わたしは真面目に、誠実に、仕事に取り組んできたはずだ。それなのに、何の理由も告げられず、唐突に職を奪われる。この現実は、あまりにも不公平だ。

怒りが、全身を震わせる。このままでは、わたしの内側にある何かが、粉々に砕け散ってしまう。そうなる前に、この感情を、この痛みを、どこかに叩きつけなければならない。

わたしは、手の届く範囲にあったクッションを掴み、何度も、何度も、床に叩きつけた。鈍い衝撃音が、音のない部屋に響き渡る。その音と共に、わたしの内側に溜め込まれた怒り、悲しみ、絶望が、少しずつ外へと吐き出されてゆく。だが、わたしの中の怒りは弱まらない。ただ、拡がってゆくだけだ。クッションが叩きつけるたびに、腕の筋肉が軋み、息が上がる。だが、止めることができない。この衝動は、わたしを支配する、抗いがたい本能のように思えた。

クッションは、わたしの感情を受け止めるかのように、形を変え、沈黙する。やがて、腕の力が尽き、わたしはクッションを放り投げた。呼吸は荒く、身体は汗でぐっしょり濡れている。疲労が、一気に押し寄せる。

天井を仰ぐ。思考の断片が、脳裏を駆け巡った。



苗村眞鏡。

その名前が、再び脳裏に浮かんだ。そして、同時に、もう一つの名前が、雷鳴のように響いた。

苗村眞鏡と苗村眞絢。

空に指で描いてみても、一文字しか変わらない。

あの時、感じた微かな違和感が、今、鮮明な形を帯びて蘇る。偶然などではない。この会社の異常な出来事に、この名前の類似性が深く関わっているのだ。馬鹿げた確信が、冷たい氷の刃となって、わたしの胸を貫く。

もしや、これは、眞絢と関係があるのではないか。

わたしをこの会社から排除するための、巧妙な仕掛けだったとしたら────あの電話が、その引き金だったとしたら────

そんなはずがない。

しかし、理性は、もはやその否定を続けることはできなかった。怒りは、やがて恐怖へと変質する。自分自身が、見えない大きな力によって操られ、排除されたのだという、底知れない恐怖が襲った。この会社は、わたしが考えていたような場所ではなかった。それは、暗い秘密を抱え、人間を容易に弄ぶような、悍ましい存在なのだ。

部屋の隅に、影が長く伸びている。夕闇が、さらに色を濃くする。わたしは、奪われた日常と、新たに得た恐怖の真実の中で、ただ、無力に座り続けていた。明日からの生活はどうなるのだろうか。そして、この不条理の背後に潜む「何か」は、わたしにどこまで影響を及ぼすのか。

その答えを知ることが、今はただ恐ろしい。この現実は、いつまで続くのだろう。

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