【瑤晶】
わたしは窓の外を見つめていた。薄墨色の空が、まるでわたしの未来を象徴するかのように重く垂れ込めている。
入社してからの歳月が、幻のように過ぎ去った。その間、幾度となくこの場所を去りたいと願ったことだろう。
だが、その願いは、常に冷たい壁に阻まれてきた。この会社は、わたしにとって、もはや職場ではない。会社は、意志を持つ、巨大な檻なのだ。
この檻から解放される道は、二つしかない。一つは、遠い未来に訪れるであろう定年で、もう一つは、誰もが恐れる苗村眞鏡からの電話である。後者は、言うまでもなく死を意味する。皮肉なことに、今すぐにこの場所から自由になる唯一の方法は、命を捨てることと同義なのだ。
定年など待てない。
だが、死は怖く、八方塞がりの状態が続いている。
初めてこの会社に足を踏み入れた日のことは覚えている。希望に満ち、未来への期待に胸を膨らませていた、あの頃のわたし。そんなわたしはもう居ない。
まさか、数年後の自分が、こんなにも深い絶望の中に沈んでいるとは、想像だにしなかっただろう。日々の業務は、もはや意味をなさなかった。数字を追い、書類を捌く行為は、ただ、時間を食い潰すための無意味な作業と化していた。やり甲斐など全くない。わたしの五感は、常にこの会社を覆う不穏な空気と、九日はいつ鳴り響くか知れぬ死の電話に囚われている。
九日、電話がかかってこないことはある。性格には、ないも同じだが────。
そんな時は、翌日に会社にゆくと、一つ座席が空いている。その席のものは、退社を余儀なくされたのだと察する。
何度、退職を申し出ようとしただろうか。そのたびに、喉の奥に言葉が閊え、吐き出すことができなかった。上司の顔が、部長の顔が、そして社長の顔が、脳裏に浮かぶ。彼らの顔には、この会社に長く在籍する者特有の、諦めと疲弊の色が深く刻まれている。彼らもまた、この檻の囚人なのだ。彼らに退職を申し出ることの結末がわかっているが故に、言っても無駄だと思ってしまう。
しかし、一度だけ、その禁を破ったことがある。入社して三年目、日々の緊張と恐怖に耐えかね、わたしの心は限界に達していた。
わたしは意を決し、直属の上司に退職の意を伝えた。その時の彼の表情を、わたしは忘れることができない。一瞬、彼の顔に走ったのは、驚きでもなく、怒りでもなく、まるで憐れむような、諦めに似た感情だった。
「瑤晶さん、まだ若いのに、何を言っているんですか」
彼の声は、穏やかだった。だが、その言葉には、わたしを縛り付ける鉄の鎖のような響きが込められていた。
「もう少し、頑張ってみませんか。今辞めるのは、あまりにももったいない」
彼は、わたしの能力を評価しているような言葉を並べ、この会社がいかに素晴らしいか、いかに将来性があるかを滔々と語り始めた。だが、その言葉の一つ一つが、わたしには空虚な響きにしか聞こえなかった。この会社が、わたしの命を蝕んでいるというのに。この場所が、わたしの精神を緩やかに殺しているというのに。
まるで、耳元で囁かれる甘い毒のように、彼の言葉はわたしの退職の意志を溶かしていった。わたしが具体的な理由を述べようとすれば、彼はそれを先回りして否定し、論点をすり替えた。わたしの抱える漠然とした不安を「一時的なもの」と片付け、わたしの身体が感じる不調を「ストレス」という言葉で誤魔化した。まるで、わたしの内側にある感情や思考が、最初から存在しないかのように。
休職を勧められたがすぐに断った。
休職をしても無駄だ。苗村真鏡の電話は、九日なら家にいても所属している限りかかってくる。
最終的に、わたしは、彼の言葉に言い伏せられる形で、退職を断念した。その時、わたしの心に深く刻み込まれたのは、絶望と、この会社に対する拭い去れない不信感だった。彼らは、わたしを逃がすつもりがないのだ。何かしらの理由を付け、言葉巧みにわたしをこの場所に留めようとする。それは、まるで、わたしをこの檻の中に閉じ込めるための、巧妙な策略だ。
それ以来、わたしは退職を口にすることをやめた。無意味だと悟ったからだ。この会社は、社員を逃がさない。退職を申し出たところで、言葉で丸め込まれるか、あるいは、もっと別の、見えない力によって阻まれるかのどちらかだ。
フロアを見渡す。同僚の顔には一様に、諦めと疲労の色が深く刻まれている。彼らもまた、わたしと同じように、この檻の中で生きることを強いられている。時折、誰かが小さな咳をする。そのたびに、わたしの心臓は跳ね上がる。その咳が、次に誰の命を奪う苗村眞鏡の電話の予兆ではないかと、無意識に身構えてしまう。咳はトリガーだという。
昔誰かが言っていた。なぜだかは分からない。だが、咳が苗村真鏡に囚われた証拠だという者がいた。だがそんな彼も、今は────。
この会社にいる限り、わたしは自由ではない。身体も、精神も、すべてがこの檻に縛り付けられている。夜、一人自宅の部屋で、わたしは未来を想像する。このまま、わたしは定年まで、この薄暗い檻の中で生き続けるのだろうか。あるいは、いつか、あの電話が鳴り響き、わたしの命が、無慈悲に奪われる日が来るのだろうか。
その答えは、誰にも分からない。ただ、わたしは今日も、御守りに触れ、密かな祈りを捧げる。そして、この檻の中で、息を潜めるように生き続けるしかないのだ。この無限に続くかのような絶望の中で。
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