【佳莉】

閉ざされた部屋の重い沈黙が、プツリと途絶え、部長の声が響いた。

何が話されるのだろう、と不安になる。

普段とは異なる、ただならぬ雰囲気だ。


「佳莉さん……貴女には会社を辞めてもらいます。理由は説明できません」



部長の言葉が、わたしの脳髄に直接叩きつけられる。あまりに唐突で、あまりに現実離れした宣告に、わたしの思考は完全に停止していた。

おかしい。同意もなく退職を強要されることがあるのだろうか。

呼吸が止まり、心臓が大きく脈打つ。呆然と目の前の部長を見つめるが、その顔は一切の表情を宿さず、まるで彫像のように冷たい。言葉の意味を理解しようと、脳が必死に回転を始めるが、現実はあまりに突飛で、わたしの内側にある常識を激しく揺さぶる。


「そんなこと言われても困ります!わたしにも生活があるんです!辞められません……」


意識が追いつかないまま、反射的に言葉が口から飛び出した。声は震え、必死の懇願となって部長の耳に届く。膝の裏が震え、全身の血の気が引いてゆくのがわかる。

普通の生活を失うことへの恐怖が、冷たい泥のようにわたしの全身を這い上がってくる。懇願するように見つめるが、部長の目は一切の光を宿さず、底の見えない闇のようにわたしを吸い込むだけだ。

怖い。抗えないという雰囲気が、部屋全体に満ちている。

「分かってはいますよ。ですが、これは決定事項なんです」

部長の声は、わたしの必死な叫びにも関わらず、揺らぐことはなかった。むしろ、その響きは確固たる、覆すことのできない意志を帯びていた。決定事項だ。抗えない。わたしに抵抗する術は無い。

わたしには、何一つとして決定権がないのだと、残酷なまでに突きつけられる。心臓が締め付けられ、こみ上げてくる吐き気に唇を噛みしめる。

どうしようも無い。


これからわたしはどう生きてゆけば良いのだろうか。


「なんでですか?なんかわたしが、会社に迷惑をかけるようなことしましたか?」

わずかに残された理性で、原因を問いただす。納得できないまま、すべてを奪われることへの絶望が、わたしを突き動かす。だが、部長の返答は、わたしの最後の希望をも打ち砕く。


「それは答えられません。繰り返しですが、これは会社の決定なんです。変えられません」


機械的に繰り返される言葉は、わたしを人間として扱っていないようだった。まるで、そこに座るわたしが、感情も意思も持たない、ただの記号であるかのように存在を無視される。理不尽が、わたしの全身を締め上げる。息をするのも苦しい。喉の奥がひりつき、肺が酸素を求めるように痛む。

この不条理な状況は、まるで悪夢だ。わたしは今、悪夢の中にいるのだ。そう思わずにはいられない。目を開ければ、すべてが元に戻るはずだ。だが、現実は冷酷に、わたしをこの場に縫い付けて離さない。

部長はデスクの引き出しから、一枚の書類を取り出した。

退職届だ。


簡潔な文面の中に、わたしの名前と、今日の日付が既に印刷されている。ただ、署名欄だけが空白のままだ。部長は、無言でそれをわたしの目の前に差し出す。その白い紙が、わたしの未来を奪い去る死刑宣告のように感じられた。

サインしなければ、わたしはまだここにいる────。

「サインしてください。拒否することはできません」

声は、冷徹な命令のようだ。

サインしないという僅かな希望すら、部長の前に砕け散った。

指先が震え、ペンを握ることもままならない。この紙に署名すれば、わたしの生活は、わたしの人生は、根底から覆される。数時間前まで、当たり前のように存在していたわたしの日常が、この一枚の紙によって、永遠に失われるのだ。


「待ってください……家族と、相談させてください。せめて、猶予を…ください…」


懇願の言葉が、震えながら口から漏れる。それでも部長は首を横に振る。

わたしに発言権やけって意見は無いのだ。


「それはできません。本日限りで、貴女は当社の社員ではなくなります。これは、会社の最終決定です。抵抗すれば、それなりの対応をいたします」

「それなりの対応」──その言葉が、わたしの脳裏に不気味な影を落とす。脅しなのか。それとも、この会社に潜む見えない「何か」の存在を示唆しているのだろうか。想像することすら恐ろしい。

もしわたしがサインしなかったら、訴えられるかもしれない。そうすれば、再就職すら難しくなる。

わたしの全身から、抵抗する気力が急速に失われてゆく。まるで、身体から生気が吸い取られてゆくように、重く無力な感覚に囚われる。わたしは、この状況に抗う術を持たない。ただ、絶望の中で、理不尽を受け入れるしかないのだろう。

ペンを握る手が、意思に反してわずかに震える。インクが紙に触れる感触が、あまりに冷たい。自分の名前を書き記すその行為が、まるで自分自身の存在を消し去る儀式のように感じられた。一文字、一文字、書くたびに、わたしの心臓が軋むような痛みを訴える。これが、この生活の終わりなのだ。そう、強く確信した。

署名を終え、ペンを置くと、部長は無言で退職届を回収した。彼の表情は、相変わらず変化しない。だが、彼の目の奥に、わずかな満足の色が宿っているように見えたのは、わたしの錯覚だろうか。


「これで話は終わりです。警備員が外で待っています。貴女は会社から出ることになるんです」

無情な宣告だった。わたしは、立ち上がる気力すら湧かないまま、ただそこに座り続けていた。足元がぐらつき、全身の力が抜け落ちてゆく。扉が開かれ、制服を着た大柄な警備員が二人、部屋に入ってくるのが見えた。彼らは、一切の感情を顔に表さず、わたしに近づいてくる。まるで、わたしが単なる荷物であるかのように腕を取った。

身体が浮き上がる。抵抗する力は、もはやわたしには残されていなかった。朦朧とした意識の中、わたしはただ、彼らに身を任せるしかなかった。部屋のドアが背後で閉まる音が、遠く、そして冷たく響いた。それは、わたしのオフィスでの人生に、そして、これまでのわたしの「日常」に、永遠の終止符が打たれた音だった。

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