【佳莉】
重い足取りで、わたしはアスファルトの道を彷徨う。会社を追い出された後の帰り道、夕暮れ時の街は、いつもと変わらぬ喧騒に包まれているはずなのに、その音は遠く、どこか非現実的な響きを帯びていた。ビル群の窓に反射する夕陽が、まるで血のように赤く目に焼き付く。肺腑を満たす空気は鉛のように重く、呼吸をするたびに胸がひりついた。
「理由は説明できません」
部長の冷徹な言葉が、脳裏で反響する。理由もなく、一方的に、すべてを奪われた。わたしの思考は追いついていないのに、強制的に追い出された。
あまりに唐突で頭の中には霧がかかったようにぼんやりとしていて、現実感がない。
いや、現実感がないのは、電話の後、すぐからだ。
それはわたしが電話の時からどこかで予知していたということだろか。
数時間前まで、わたしには明確な居場所があり、役割があった。しかし、今は何もない。ただ、空っぽの身体だけが、街をさまよっている。
なぜ、こんなことになったのだろう。わたしは何か間違いを犯しただろうか。必死に記憶を辿る。仕事で大きなミスをした覚えはない。人間関係で揉め事もなかった。むしろ、眞絢や愛鶯、承乃といった友人との関係も、仕事に影響はしていなかったはずだ。それなのに、なぜ―――今朝から空気がおかしかったのは、何か関係あるのだろうか。わたしを解雇する予定がもともと知らされていたから、あの空気だったのであろうか。
問いは次々と浮かび上がるが、そのすべてが、部長の「理由は説明できません」という言葉によって、無慈悲に打ち砕かれる。
今会社に戻っても、再び追い出されるという未来が明確に予測できる。それに、またしてもりふじんなりゆうでうったえられるかもしれない。
まるで透明な壁に阻まれているように思える。見えない壁の向こうに真実があるのに、決して手を触れることができない。知ることができない。
朝の静けさがよみがえり、再び耳をついた。
電話がかかってきた時、張り詰めていた空気がさらに重たくなったのはなぜであったか。
「もしもし、眞鏡だよ」
不意に、その声が鮮明に脳裏に響いた。彼女の声を聞いて、安堵したのを思い出す。
しかし、重苦しい空気は解決していなかった。電話を切って割とすぐ、部長は隣に来ていたように思う。あまりに手際が良い。まるで朝から、予期していたように―――。あの電話のせいで会社を辞めさせられた、とでも言うのだろうか。そんな事があるはずがない。常識的に考えればすぐにわかる。個人的な電話一本で、これほどの仕打ちを受けるなど、常識では考えられない。だが、今のわたしにとって、常識という言葉は、既にその意味を失いつつあった。
眞鏡。
彼女の名をもう一度、心の中で反芻する。
なぜ、彼女の顔がはっきりと浮かばないのだろう。友人のはずなのに、輪郭が曖昧だ。どんな顔をしていたか、どんな声で笑ったか、思い出そうとすればするほど、記憶の靄が濃くなる。いつ、最後にあったか。いつ、最後に電話をしたか。
なぜか一切思い出せない。
苗村眞鏡。
不意に、フルネームが脳裏に浮かんだ。苗村。その苗字に、奇妙な既視感を覚える。
眞鏡だけではなく、他にどこかで、この苗字を聞いたことがあるような気がする。しかし、それがどこで、誰だったのか、どうしても思い出せない。
そしてしばらくしてから、電撃のような衝撃が全身を貫いた。
苗村眞絢だ。
同期の、眞絢であった。
苗村眞鏡。苗村眞絢。
一文字しか違わない。
なぜ、こんなに酷似しているのだろうか。
心臓が、喉元までせり上がる。偶然だろうか。いや、こんなことが偶然であるようにはおもえない。あまりにも似すぎている。
同じ会社で、同期と、わたしにかかってきた電話の相手。この不条理な出来事の核心に、この名前の類似性が深く関わっているのではないだろうか。全身の毛穴が開き、皮膚の表面が粟立つような悪寒が、背中を駆け上がってゆく。
眞絢と眞鏡。
もしや、これは──。
わたしの心の中に、一つの仮説が、闇の中から這い上がってきたように姿を現す。それは、あまりに恐ろしく、あまりに現実離れした仮説だった。それでも、この異常な状況を説明できる唯一の糸口のように思えてしまう。
街のざわめきが、突然、耳の奥で遠くなる。周囲の喧騒が、まるでわたしとは別の次元で繰り広げられているかのように、意識から切り離されてゆく。身体は熱いのに、指先は氷のように冷たい。全身の血液が、一瞬にして凍りついた。
もし、あの電話の相手が、本当に「眞鏡」という名の友人ではなかったとしたら――。
もし、あの電話が、わたしをこの会社から排除するための、巧妙な仕掛けだったとしたら――。
万が一、その仕掛けに、眞絢という、もう一人の「苗村」が関わっているとしたら――。
ありえない。
理性は激しくそれを否定する。優しくて、物静かで、少しばかり物憂げな表情を浮かべる眞絢の顔が、脳裏に蘇る。彼女が、わたしに対して、そんな悪意を抱いているようにはおもえなかった。
だが、フロアに漂っていた異常なまでの緊迫感や社員の顔に刻まれた、諦めと絶望の表情―――すべてが、偶然の産物であると片付けるには、あまりにも出来過ぎている。
もし、わたしの直感が正しければ、わたしはとんでもない場所に足を踏み入れてしまったことになる。この会社は、単なる企業ではないのかもしれない。何か、人智を超えた、恐ろしい力が働いている。そして、わたしは、その「何か」によって、用済みとされ、排除されたのだろうか。
無意識のうちに、足が止まる。行き交う人々が、わたしを避けるように過ぎ去ってゆく。気のせいで片づけてしまえば、すべてなかったことになる。
わたしは今、どこにいるのだろう。物理的な場所ではなく、精神的な意味で、わたしはどこにたどり着いてしまったのか。
眞鏡。眞絢。
二つの名前が、わたしの頭の中で、不気味な連鎖反応を起こす。わたしはこの類似性を、単なる偶然では片付けられなくなっていた。これは、わたしがこの会社で巻き込まれた、ある種の法則を示すものではないだろうか。そして、その法則が、わたしを、そしておそらくは眞絢をも、会社の暗部へ引きずり込もうとしているのではないか。
夕闇が、街全体をゆっくりと覆い始める。わたしは、この身に起こった不条理と、新たな名前に秘められた恐怖の連鎖に、ただ立ち尽くすしかなかった。明日からの生活はどうなるのだろうか。それすらも、今のわたしには霞んで見えた。
なぜこんな非現実的なことを考えてしまうのだろうか。
いままでわたしは、あまり都市伝説のようなものを、信じなかったはずなのに――。
わたしはもう、わたしではないのかもしれない。
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