《シーン4》

【佳莉】

電話の音はどこから発せられているのだろうか。普段なら暫くしたら切れるはずなのに電話はかなり長く鳴り続けている。

張り詰められた空気から、長く感じるだけであろうか。

その理由もあるだろうが、それだけでは解決出来ないほどに長い。


一度切れて再びかかって来たのだろうか。否、一度も切れたようには思えない。音の発生源を探してわたしは周囲を見渡した。


上司の顔を見ると、一様に青ざめ、焦点の定まらない目で辺りを彷徨わせている。誰もが、この不意に訪れた音の異質さに、思考を停止させられているようだ。

耳を澄ませて周囲から音源を捜すが音は拡散し、普段のようにわからない。普段と違う。

身体が不意に机にもたれ掛かる。

張り詰めた空気に頭が痛くなる。


電話の音が大きくなった。

わたしのデスクの上から聞こえているのかもしれない。

社員用の受話器に手を置いてみる。全く振動していない。耳を近づけても違うとわかる。


もしかして────。


バックに手をふれる。

僅かに振動していた。やはり……。

わたしの携帯電話にかかってきているのだ。

背筋に冷たい悪寒が走り抜け、わたしの内部は急速に張り詰めてゆく。指先から全身に伝播する震えが止まらない。震える手でバッグの中に手を入れこみ、スマートフォンの画面を見た。



非表示と書かれている。


わたしの胸に鉛のような重みが伸し掛る。見知らぬ番号からの電話は、それだけで不吉な予感を孕む。まして、この異常な状況下では、尚のことだ。


通話ボタンを押すことができない。指が、意思に反して硬直する。しかし、わたしの猶予は、音の続く限りでしかなかった。ピリリリ、ピリリリと執拗に鳴り続ける音が、迫り来るようにわたしを追い詰める。やがて、ボタンに触れることも出来ないまま、電話は勝手に繋がった。

「もしもし」

掠れた声が、わたしの唇から零れ落ちる。声帯が震え、全身の震えと同調するように空気が大きく揺れる。

怖い。指が勝手に震えて着いてしまったのだろうか。勝手に繋がることなどあるのだろうか。返事を待つ数秒が、永遠のように長く感じられる。

電話を切るボタンが見当たらない。普段使っていた釦を探そうとも、何故か見当たらない。


おかしい。



今日は何かおかしい。


「もしもし、眞鏡だよ」

出てしまった、と一瞬思うが、

耳に届いた声は、驚くほど普段と変わらない友人の声であった。その瞬間、張り詰めていたわたしの全身の力が、一気に抜けてゆく。まるで、硬く締め付けられていた縄が、唐突に緩んだかのように椅子に全身が沈む。

異常な状況の中で、あまりに日常的な電話が際立ち、力が抜けてしまう。

この状況の原因の出来事が終わった訳では無いのに、まるで終わったように想われた。


「いま会社だから」


そう言って、わたしは通話終了ボタンを押し、電話を切る。先程まで、終了ボタンが無かったことすら、すっかり忘れていた。

奇妙な空気も忘れ、安堵にため息を着く。

だが、安堵は刹那のものだった。電話を切った途端、それまで保っていた意識の輪郭が、ずるりと曖切り始めゆく。景色が歪み、空間がねじれるような感覚に襲われる。身体が水中に沈んでゆくように、重たく重心が移動する。臀部が上半身を支えられず、へなへなと搖れた。思考が遠くなる。

このまま意識が消え、倒れてしまうのかと思ったが、完全に意識が消え去ることはなく、ただ、朦朧とした状態が続いた。

意識がふわふわとしたまま脳裏を揺れ動き、五感は鈍麻してゆく。


五感の麻痺も止まり、わたしは現実離れした感覚の中、ぼんやり座っていた。



しばらくしてふと横に立つ人影があることに気づく。ハッとしてそちらを振り向くと、部長がすぐそばに立っていた。なぜ彼がいるのだろうか。

ふと、まだ張りつめた空気が終わっていないことに気づいた。電話に安堵し、忘れていたのは本当に束の間であったのだ。


ハッとして部長の顔を見上げるが、彼の表情は読み取れない。ただ、その沈黙と、眼差しが、わたしに立つよう促している。どこに行くのだろう。ただならぬ雰囲気を感じて、部長に促されるまま、わたしは立ち上がった。足元が覚束ず、身体は鉛のように重い。朦朧とした意識のまま、数人の上層社員がいつの間にか集まっている場所へ連れていかれる。彼らの視線が、わたしの全身に突き刺さるように痛い。

何故か責められているような感覚に襲われた。気づけば、その集団の中心で、わたしはひとり、異質な存在として立たされていた。彼らがわたしに何を求めているのか、何が始まろうとしているのか、朦朧とした意識では判断することすらできない。ただ、重い足取りで歩き続けることだけが、今のわたしに許された唯一の行動だった。オフィスの一角にある、見慣れない別室に、わたしは吸い込まれるように連れてゆかれる。中にはいつの間にかわたしを囲んでいる軍団を離れていた部長が座り、待ち構えていた。

課長に背中を押され、部長の目の前に座ると、社員は出てゆき、部屋の扉が閉まる音だけが、鈍くわたしの耳に響き渡った。

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