蜜柑の木

山下いのり

蜜柑の木

 ある町に不思議な木があった。その木は町の中心の広場に植えられ、木の前には看板が立っている。看板にはこう書かれていた。


「夢が叶うと蜜柑が実ります。どうぞあなたの夢を叶えて」


 誰がこの木を植えたのか知る人はいない。昔から町に住んでいる年寄りでさえ知らなかった。それでも看板に書かれていることが本当に起こるということは町の誰もが知っていた。町の人々は自分の夢を叶えると、木が植えられている広場まで走って向かった。夢を叶えた人が木の前に立つと、つやのある若葉が隙間なくついていただけの木が、枝先から動き出す。緑の間から白いつぼみが顔を覗かせたかと思えば、あっという間に橙色の蜜柑が実る。獲れた蜜柑は実らせた人が食べることもできたが、他の人に食べさせてやることもできた。食べた人が口を揃えて「この世のものとは思えないほどの美味しさだ」と言うのは、夢を叶えた達成感がそれを手伝っているからなのか、食べてみなければわからない。町の人々は自分の夢を叶えるために生き、そして木は何年もの間町を、人々を見守った。

 町に木が現れてから百年以上経った冬の日。町の小学校では、五時間目の授業が行われていた。昼過ぎの緩やかな空気が流れる三年二組の教室で、担任の藤本が黒板にチョークで大きく「夢」と書いた。効きの悪い暖房が、教室の上の方へ舞い上げていった生徒たちの集中力を藤本は手を二回叩くことで取り戻させた。

「さあ、五時間目は作文を書きましょう。テーマは夢。夢ならなんでもいいわ。原稿用紙を配るから後ろの人に回してね」

「夢って将来の夢?」

「なんて書けばいいの」

 藤本はきつく結んだ髪を撫でつけながら、原稿用紙を数えている。生徒たちが見慣れない原稿用紙を前に口々に話し出す。

「自由に思ったことを書けばいいのよ」

 教室の中心の列、前から二番目の席に座っている古谷ユメは、黒板を眺めていた。

「ユメちゃんユメちゃん」

 肩を軽く叩かれユメが右を向く。

「ユメちゃんの名前と同じだね! ユメちゃんは何書くの?」

 右隣に座る女子生徒に尋ねられたユメは藤本を一瞥し、小声で返した。

「言っても笑わない?」

「笑わないよ」

 好奇心に溢れ、もどかしそうに揺れる瞳をした女子生徒が耳元で話すように促す。ユメは口元を覆い、できるだけ小さな声で話した。

「……それってすごく大変だよ。だって他の学年の人たちもってことでしょ。二組の全員と仲良しでもないじゃん」

 女子生徒は目を丸くしながら言った。ユメは教室を見渡した。等間隔で並ぶ席に座っている生徒たちのことを、一人残らず知っている自信がユメにはあった。

「二組のみんなとは仲良いもん」

 唇を尖らせ言い返したユメに女子生徒が食らいつく。

「早見さんとも仲良しってことだよ」

 視線を前に向けた女子生徒は、ユメの一つ前に座る早見サクラの背中を指差した。咄嗟に口に人差し指を当ててみせたユメだったが、早見サクラは黒板を見つめているだけだった。

 早見サクラ。友達の多さを自負しているユメが、クラスの中で友達か、そうでないのかの答えを先送りにしている唯一のクラスメイトだった。今も自分が指を刺されていることに気がついていないのか、気がついていても興味が無いのか、振り返りもしない。サクラは、遠巻きに眺めているのがちょうどいい生徒だった。問題児ではないが、優秀でもない。いじめられてはいないが、周りに友達がいるわけでもない。ただそれでも特に彼女から悲壮感が漂わないせいで誰も声を掛けない。むしろ一人でいることがサクラにとって一番の安らぎであるようにさえ見える時があるのだ。

「ほらそこ、お喋りは駄目よ。人を指差すのも」

「だっていきなり書いてって言われてもわかりません」

 ユメの列まで原稿用紙を配りに来た藤本に女子生徒が言い返した。

「そうねぇ」

 藤本は手を止め天井を見つめた。伸ばした語尾が教室の空気に溶け込み、生徒の視線が藤本に集まる。

「なら、叶った時に蜜柑が実りそうな夢を書くのはどう?」

 数秒続いた沈黙の後に藤本は答えを捻り出した。

「どんな小さな夢でも本気で叶えたいと思っていたら、広場の木は蜜柑を実らせるでしょう。スポーツ選手になりたいだとか、そういった夢も素敵だけど、いつか猫を飼いたいなんていうのも本気ならいいんじゃないかしら」

 藤本はサクラに原稿用紙を手渡しながら、教室を見渡した。サクラは後ろに座るユメに原稿用紙を回し、少し考えてから鉛筆を持った。


「それじゃあ、新井さんから順番に読んで、読み終わったらみんなで拍手をしましょう」

 原稿用紙が配られてから二十分後、藤本が再び手を二回叩いた。新井と呼ばれた男子生徒が立ち上がり、パイロットになるのが夢だという作文を読み上げた。その間もユメは筆跡と消しかすでぐしゃぐしゃになった原稿用紙に齧り付き、鉛筆を走らせていた。次の生徒もその次の生徒も順番に自分の夢を書いた作文を読み、そうしてサクラの順番がやってきた。

「じゃあ次は早見さん」

 サクラが席から立ち上がり、原稿用紙を目線の高さまで持ち上げた。

「私の夢は、広場にある木の蜜柑を食べることです」

 藤本はサクラの作文の意味を数秒経ったあとに理解し、口を開きかけたがサクラは作文を続けて読もうとした。

「私はもうすぐ」

「はい先生」

 想定していたよりもずっと鋭く出たユメの声がサクラの作文を遮った。

「古谷さん、どうしたの」

 ユメは席から立ち上がり、なにか言おうとしている藤本に牽制するように話し始めた。

「広場の木に蜜柑ができる夢を書かなくちゃいけないのに、早見さんの作文はおかしいと思います」

 下ろした手に持っている原稿用紙に目線を落としていたサクラは、ユメの方へ振り向いた。

「ユメちゃん。私の夢、変?」

 変な夢かだって。そんなの変に決まってる。ユメは心の中で嘲笑した。こんなおかしな目標が夢でいいのなら、今日まで自分がしてきたあの努力はなんだというのか。ユメの中にある自負心が、勝手に言葉を選び始めた。

「変だよ。蜜柑を食べるのが夢なんて」

「そうかな」

 サクラの言葉に嫌味のようなものは混じっていなかった。

「じゃあ、どんな夢なら変じゃないの」

 またしてもサクラが嫌味のない声色でたずねる。ふと、クラスメイトの注目が教室の真ん中で立っている二人に集まっていることに気づいたユメは、途端に声が喉に詰まった。

「それは……」

 変じゃない夢とはなにか。と聞かれるとどう言い表せばいいのか、ユメはわからなかった。例えば、大人になったらこんな職業に就きたいと思うことが変じゃないのだとしたら、それ以外は変な夢なのだろうか。本気じゃないなら変なのか。これから読む自分の作文が、自分の夢が、変じゃないという保障はどこにあるのか。

「は、早見さんは蜜柑を食べたいのね?あの広場に生えてる木の」

 向かい合って黙り込む二人に座るよう仕草で合図した藤本が、サクラの前で屈んだ。

「例えばね……その蜜柑を食べるためにやりたいと思うことはある? なんでもいいわ。蜜柑を実らせるために叶えたいと思う夢」

 教室にいる誰もがサクラの次の言葉を待っていた。

「私の夢は蜜柑を食べることです」

「……そうなの。ええ、それもいいと思うわ。蜜柑を食べたいって、皆が思うことだもの。いつか、蜜柑を食べるために成し遂げたいことが見つかるといいわね」

 藤本が、サクラの背中を優しく叩いた。

「どうやって叶えるの」

 サクラは振り返らなかった。

「他の人が叶えた時に分けてくださいって言うの? そうやって自分の夢だけ楽して叶えるんだ」

 ユメの声が次第に大きくなっていく。

「そんな夢、最低だよ」

「古谷さん」

「だって」

 ユメの言葉を覆うようにチャイムが鳴り、藤本は半ば無理やり授業を終わらせた。サクラよりあとの生徒の作文は次の日の授業に持ち越された。

 そこから二週間、サクラが登校することはなかった。

 

 ユメが町の騒ぎを知ったのは、サクラが学校に来なくなって一週間が経つ頃だった。広場の木に蜜柑が実らなくなったのだ。夢を叶えた人が木の前に来ても、蜜柑が実らないどころか枝が動くことすらない。そして、もう一つユメの心を騒がせる知らせが舞い込んできた。サクラが転校すると言う話だ。彼女が町を出るまであと一週間だと聞いた時にはユメは家を飛び出し広場に向かって走り出していた。


 早見一家が町を出る日、小さなアパートを背にサクラが車に乗り込もうとした時だった。

「早見さん!」

 ユメが、停まっていた車に体当たりをする勢いでサクラに追い付いた。

「ユメちゃんどうしたの」

 ユメは、車の前で驚いた顔をしているサクラの両親に頭を深く下げると、サクラの手を引き走った。

「あ、あの」

 サクラは両親に声をかけたが、ユメが構わず手を引いたのでつられて走った。


 「ねぇ、どこまで行くの」

 ユメは、サクラを無視して広場の敷地に入った。

「ここ、来て」

 ユメは木の下まで歩き、サクラに自分の隣を指差して見せた。サクラはユメの隣まで歩いた。

「私の夢はね、町の人たち全員とお友達になること」

 サクラは、息を切らしながら枯れた木の前で話すユメの横顔を見ていた。

「昨日まで町の隅々まで行って全員とお友達になってきたの。お年寄りも、高校生も、町の人たちが飼ってるわんちゃんや猫ちゃんも」

「すごいね」

 サクラは、目を丸くした。

「私の夢が叶ったから、こうして立っていたら蜜柑ができるはず」

「うん」

 ユメとサクラは並んで木を見つめたが、数秒待てば蜜柑を実らせるはずの木は動かない。

「ユメちゃん、本当に全員なの?」

 サクラが横を見ると、ユメの目には今にも溢れそうなほど涙がたまっていた。

「本当だもん! 私の夢が叶ったら蜜柑が実るはずだから、早見さんに食べさせてあげようと思って」

 目元を擦り泣き出したユメを見たサクラがポケットをまさぐった。

「あ、ハンカチ、リュックの中だ」

 今のユメには何も聞こえていない。

「私、絶対蜜柑食べるんだって決めてて、だから頑張って友達たくさん作って……」

 サクラが音を立てないようにポケットから手を出す。

「早見さんが引っ越すことあの時知らなくて、早見さんの夢、変だって言ってごめんね……」

「……」

 二人の間に長い沈黙が訪れた。

「謝ってるんだからなんとか言ってよ」

「ユメちゃん!」

 サクラが、下を向いたままのユメの手を取り、木の方へ顔を向けさせた。ユメが木を見ると、枝がざわざわと動いていた。ユメが呆気に取られている間に、散っていた若葉が枝の先からよみがえり、真っ白な花が咲き、そしてたくさんの蜜柑が実った。

「なんで……」

 驚くユメの手を取り、サクラは広場を走り回った。ベンチで休んでいる人や、花壇に水をあげている人、広場の近くにある家の中まで声が届くようにサクラは大きな声で叫んだ。

「蜜柑が実ったよ! 広場の木に蜜柑が実ったよ!」

 大きな声を出すサクラを初めて見たユメは戸惑いながら、しかし笑顔で叫んだ。二人の声を聞きつけ広場には次第に人が集まり、その人たちがまた人を呼び、広場は沢山の人で溢れかえった。

 町の人たちは喜んで蜜柑を分け合った。皆、あまりに喜んだせいで木の前に立っている看板の文字が、変わっていることには誰も気づいていない。


「夢が叶うと蜜柑が実ります。どうぞ誰の夢も大切に」

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蜜柑の木 山下いのり @inori0220

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