1-1. 王立地理院・書庫

 王立地理院の書庫は、夜の帳が下りると、昼間の活気を吸い込んだまま深い沈黙に包まれる。そびえ立つ書架の影が、まるで古代の巨人のように床に長く伸び、壁際に整然と並ぶ天球儀や測量器具のシルエットをぼんやりと浮かび上がらせていた。古びた羊皮紙とインク、そして微かな防虫ハーブの香りが混じり合い、濃密な知識の匂いとなって部屋を満たしている。


 その静寂の中、一人の少女が大きな樫の机に向かっていた。エリアナ、十九歳。王立地理院の見習い地図製作者だ。肩まで届く豊かな栗色の髪は、作業の邪魔にならぬよう無造作に革紐で束ねられ、ランプの灯りを反射するヘーゼル色の瞳が、目の前に広げられた一枚の奇妙な「地図」に食い入るように注がれていた。


 それは、彼女がこれまで学んできたどの地図とも異なっていた。羊皮紙ではなく、薄く磨かれた黒曜石のような金属板に、見たこともない鋭利な道具で刻まれたかのような細い線。描かれているのは、起伏に富んだ地形や複雑に蛇行する河川、そして——無数の、星々。既知の星座もあれば、古文書でしか見たことのない星の配置もある。それらが、まるで生命を宿した蔦のように、地上の図と複雑に絡み合っているのだ。


 父、リアムが遺した「未完成の地図」。八年前、高名な「星図師」であり冒険家でもあった父は、「始まりの色」と「原初の星路図」という謎の言葉を追い求め、東方地域への探検に旅立ち、そのまま帰らぬ人となった。この金属板の地図は、父の数少ない遺品の中から見つかった、唯一の手がかりだった。


「……やっぱり、分からない」


 エリアナは、ほとんど吐息のような声で呟いた。指の腹で、地図の冷たい表面をそっとなぞる。インク壺の深い青を映した瞳には、父への尽きない憧憬と、自身の未熟さに対する焦りが複雑に絡み合って浮かんでいた。


 地理院に収蔵されている膨大な古文書を紐解き、あらゆる古代言語のリストと照合しても、この地図に刻まれた文字は一つとして解読できなかった。天文学の権威であるオルダス師の助けを借りて、描かれた星図を現在の天球と照らし合わせても、微妙な、しかし決定的な誤差が生じるばかり。まるで、この地図だけが、アストリオンとは異なる宇宙の法則で描かれているかのようだった。


 ——地図はな、エリアナ。ただ世界を正確に写し取るだけが能じゃない。真の「星図師」は、その土地に眠る魂の声を聞き、星々の囁きに耳を澄ませ、時に未来の影さえも描き出すものさ。

 幼い頃、父が冒険の準備をしながら語ってくれた言葉が、ふと胸の奥に蘇る。エリアナにとって、父は手の届かない星のような存在だった。その背中を追いかけ、「星図師」の道を志したが、現実はあまりにも厳しい。


 焦燥感に駆られ、エリアナは無意識のうちに首に提げた革紐を握りしめていた。指先に触れるのは、父の形見である円形の真鍮盤——「星の道標」。一般的にはアストロラーベと呼ばれる、天体の位置を測定し、時刻や方角を知るための道具だ。だが、父のそれは、地理院にあるどの精密なアストロラーベとも異なり、太陽と月、そして無数の星々を組み合わせたような複雑怪奇な模様が表面に刻まれ、まるで生きているかのように滑らかに回転する幾重もの円盤を備えていた。


 これを手にすれば、父に近づけるような気がした。父が何を考え、何を見ようとしていたのか、その一端に触れられるような気がした。


 エリアナは「星の道標」を「未完成の地図」の上にかざす。ランプの灯りが真鍮の盤面を鈍く照らし、複雑な影を地図に落とした。


 その時だった。


 ほんの一瞬、アストロラーベの影と重なった部分の、地図に刻まれた星の線が、まるで呼応するかのように淡い光を帯びて揺らめいた——ように見えた。


「え……?」


 エリアナは息を呑み、目を凝らす。だが、それは幻だったかのように、地図は再び沈黙を取り戻していた。


「……疲れているのね、きっと」


 自嘲気味に呟き、エリアナは「星の道標」をそっと胸元にしまい込んだ。しかし、胸の高鳴りはなかなか収まらない。今の光は、本当にただの気のせいだったのだろうか。


 窓の外には、満天の星が広がっている。王都アストリアの中心、「星見の丘」の頂に立つ王立地理院の書庫からは、街の灯りも届かず、星々の光がより一層強く感じられた。父も、この星空を見上げていたのだろうか。同じように、未知への渇望を胸に。


 エリアナのヘーゼル色の瞳に、再び決意の光が灯った。彼女は新しい羽ペンをインク壺に浸し、インク染みの残る指先で、そっと「未完成の地図」に触れる。

 諦めない。父が追い求めたものの正体を突き止めるまでは。そして、いつか必ず、この星の言葉を読み解き、父と同じ「星図師」として、世界の空白を希望の光で埋めてみせる。


 その強い想いを胸に、エリアナは再び地図と向き直った。書庫の窓から差し込む清澄な月光が、彼女の背中と、机の上に広げられた謎めいた金属板を、静かに照らし出していた。

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