1-2. 地理院・オルダスの工房
王立地理院の製図塔の最上階、マスター・オルダスの工房は、エリアナにとって畏敬と緊張が入り混じる場所だった。壁一面に並ぶのは、師が手掛けた精密極まりない大陸全図や、天体の運行を示す複雑な星図の数々。床には使い込まれた測量三脚や、レンズの鈍い光を放つ経緯儀(トランシット)、天球儀などが所狭しと置かれ、まるで知識の巨人の寝倉に迷い込んだかのようだ。部屋の中央には、広葉樹の一枚板で作られた巨大な作業机があり、その主であるオルダスは、いつも山羊皮紙の海に埋もれるようにして座っている。
雪のように真っ白な髪と、胸元まで豊かに伸びた白い髭。年齢は七十に近いというが、その背筋は驚くほどまっすぐに伸び、深い皺の刻まれた顔には、長年の苦労と揺るぎない知識の深さが滲み出ている。鋭い深い青色の瞳が、今はエリアナが恐る恐る差し出した測量課題の羊皮紙に向けられていた。
「……ふむ」
オルダスは長い指で髭をしごきながら、唸るような低い声を漏らした。工房には、カリカリと羽ペンが羊皮紙を引っ掻く音と、師の重々しい息遣いだけが響いている。エリアナは固唾を飲んで、その次の言葉を待った。昨夜、父の「未完成の地図」と格闘したせいか、少し寝不足気味の頭が、緊張でさらに重くなる。
今回の課題は、王都近郊の「迷いの森」と呼ばれる複雑な地形の測量と、それに基づく正確な地図の作成だった。一週間という短い期間で、エリアナは寝る間も惜しんで森を歩き回り、六分儀とコンパス、そして父から受け継いだ星の知識を頼りに、全ての地点で天測と実測を繰り返した。自分なりに完璧な出来だと思ったが、この師の前では、どんな些細な瑕疵も見逃されることはない。
やがて、オルダスは大きなため息をつくと、羊皮紙から顔を上げた。
「エリアナ。お前は、地図の縮尺というものをどう考えておる?」
低い、だが芯のある声が、工房の隅々まで響き渡った。エリアナは背筋を伸ばし、懸命に答える。
「は、はい。地図に描かれる対象物と、実際の大きさとの比率を示すものであり、利用目的に応じて最適な縮尺を選ぶことが重要かと……」
「その通りだ。では、この課題の地図、お前が設定した縮尺は?」
「一万分の一でございます」
「なぜ、その縮尺を選んだ?」
矢継ぎ早の質問に、エリアナは一瞬言葉に詰まった。考えなかったわけではない。迷いの森の複雑な地形を詳細に描き出すには、それなりの大縮尺が必要だと判断したのだ。
「それは……森の細部、例えば小径や泉の位置などを正確に記し、旅人が迷わぬようにするためには、この程度の縮尺が必要だと考えました」
「ほう。旅人のため、か」
オルダスは、皮肉とも感心ともつかない声で呟くと、再び羊皮紙に目を落とした。そして、赤いインクをつけた羽ペンで、エリアナの地図の数カ所に、容赦なく×印を書き込んでいく。エリアナの心臓が小さく跳ねた。
「この泉の位置、実測値と星から算出した座標との間に、コンマ二秒の誤差がある。泉の水面に映る星影の歪みを考慮しておらん。それから、この尾根の等高線。傾斜の計算が甘い。これでは、実際の勾配よりも緩やかに見えてしまうぞ。旅人がこの地図を信じて進めば、あらぬ急斜面に足を取られかねん」
次々と指摘される誤りは、エリアナが自信を持っていた部分ばかりだった。顔から血の気が引いていくのが分かる。師の指摘は常に的確で、弁解の余地はない。
「地図製作者の仕事はな、エリアナ。ただ美しく、それらしく描くことではない。そこに記された情報の一つ一つが、人々の命運を左右することもあるのだ。その責任の重さを、お前はまだ理解しておらんようだな」
厳しい言葉が、エリアナの胸に突き刺さる。だが、不思議と反発心は湧いてこなかった。それは、オルダスの言葉の奥に、エリアナに対する真摯な期待と、そして父リアムに対する深い敬愛の念が感じられるからだったかもしれない。
オルダスは、エリアナが肩を落とすのを見ると、ふっと表情を緩めた。その深い青色の瞳の奥に、温かな光が宿るのをエリアナは見逃さなかった。
「……まあ、よい。この課題で、お前が夜空の星々を読む力だけは、並ではないということは分かった。特に、この季節には観測が難しいとされる南天の小星座の配置から、これほど正確に方位を割り出すとはな。見習いの域を超えておる」
思わぬ言葉に、エリアナは顔を上げた。厳しい批評の後だけに、その称賛は染み渡るように嬉しかった。
「ありがとうございます、マスター」
「礼には及ばん。事実を述べたまでだ」オルダスはそっけなく言うと、ふと遠くを見るような目つきになった。「……お前の父親、リアムもそうだった。奴は、星を読むことにかけては天才だった。いや、星に愛されていた、と言うべきかの」
父の名前が出たことで、エリアナの心臓が再び高鳴った。オルダスは、父リアムの数少ない親友の一人であり、共に若い頃は数々の冒険を経験したと聞いている。
「お前の親父はな、エリアナ」
オルダスは、ゆっくりと言葉を紡いだ。その声には、どこか懐かしむような、そして何かを深く秘めているような響きがあった。
「ただの地図描きじゃ、なかった。奴が追い求めていたのは、もっと……もっと深く、そして途方もないものだったのだ」
その言葉は、エリアナの胸に重く響いた。父が追い求めていたもの。それは、あの「未完成の地図」に隠されているのだろうか。そして、自分はいつか、その意味を理解することができるのだろうか。
オルダスの工房を満たすインクと古羊皮紙の匂いの中で、エリアナは、果てしなく広がる謎と、それに挑もうとする自身の小さな決意を、改めて感じていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。