第4話 去年の夏の記憶

 

青いインクの跡が、ズキズキと疼く。


痛い。痛い。痛い。


詩織がいない世界は、息をするだけで胸が張り裂けそうに痛い。


銀色の髪飾りを握りしめる。手のひらに、冷たい金属の感触が食い込む。君の体温はもうどこにもない。君の笑い声も、君の優しい瞳も、君の存在そのものが、この世界から消えてしまった。


でも——


僕だけは覚えている。


目を閉じると、去年の夏が鮮明に蘇る。まるで昨日のことみたいに、いや、今この瞬間に起きているみたいに鮮やかに。


あの日——運命の歯車が回り始めた、あの夏祭りの日。


「……もう、ダメ」


金魚すくいの屋台の前で、一人の女の子が肩を落としていた。


三枚目のポイが水に溶けていく。薄い紙が、まるで彼女の希望みたいに、ゆっくりと沈んでいく。赤い金魚たちが、悠々と泳ぎ回る。まるで彼女を嘲笑っているみたいに。


「なんで上手くいかないの……」


震える声。唇を噛みしめる横顔。今にも泣き出しそうな、でも必死に堪えている表情。


僕の足が、勝手に動いた。


理由なんて分からない。ただ、彼女の悲しそうな顔を見ていられなかった。放っておけなかった。いや、違う。もっと単純で、もっと純粋な理由——


彼女の笑顔が見たかった。


「あの——」


声が裏返る。中学生みたいに情けない声。でも、もう引き返せない。


彼女が振り返った瞬間、世界が止まった。


本当に、止まった。


祭囃子も、人々の喧騒も、全てが遠くへ消えていく。


セミロングの黒髪が、提灯の光に照らされてふわりと揺れる。透明な瞳が、まっすぐ僕を見つめる。そして——


ドクン。


心臓が、一度だけ、ものすごく大きく跳ねた。


これが恋だと、理屈じゃなく、本能で理解した。


「これ、使ってください」


震える手で、未使用のポイを差し出す。手が震えすぎて、ポイがカサカサと音を立てる。


「えっ?でも、それはあなたの……」


「いいんです。僕、へたくそなんで」


嘘だ。大嘘だ。


本当は金魚すくいが得意だ。小さい頃から、夏祭りの度に10匹は軽くすくっていた。でも——


「本当にいいの?」


彼女が心配そうに僕を見る。その優しさが、また心臓を締め付ける。


「はい。それより、頑張ってください」


彼女の顔が、パッと明るくなった。


「ありがとう」


そして、この世で一番美しい笑顔を見せてくれた。


「優しいね、君」


ドキドキドキドキドキドキ——


心臓が壊れそうだった。鼓動が早すぎて、もう何が何だか分からない。顔が熱い。手のひらに汗が滲む。


優しいんじゃない。君の笑顔が見たかっただけ。君の喜ぶ顔が見たかっただけ。もうそれだけで、僕の夏は完璧だった。一生分の幸せを、この一瞬で使い果たしてもいいと思った。


「私、月城詩織」


「ふ、藤宮……陽太です」


名前を交換した瞬間、運命の糸が見えた気がした。


赤い糸じゃない。


青い糸。


インクみたいに濃い、深い青の糸が、僕と詩織を繋いでいる。


詩織は僕のポイを受け取ると、真剣な表情で水面を見つめた。狙いを定めて、そっとポイを水に入れる。慎重に、でも迷いなく。


そして——


「やった!」


見事に金魚を二匹すくい上げた。透明な袋の中で、赤い金魚がキラキラと光る。


「見て見て!すごいでしょ!」


子供みたいに無邪気にはしゃぐ詩織。さっきまでの悲しそうな顔が嘘みたいに、今は喜びで輝いている。


その髪に留められた銀色の髪飾りが、提灯の光を反射して——キラキラ、キラキラ。


まるで星のかけらみたいに、眩しく光る。


「すごい……本当にすごいです」


「ふふ、陽太くんのおかげだよ」


いつの間にか、下の名前で呼ばれていた。


そのことに気づいて、また顔が熱くなる。


「あの、よかったら……」


詩織が上目遣いに僕を見る。


「一緒に、お祭り回らない?」


断る理由なんて、この宇宙のどこを探してもなかった。


「はい!」


即答した自分の声の大きさに、自分でも驚く。


詩織がクスッと笑った。


「じゃあ、行こう」


そうして僕たちは、夏祭りを一緒に回ることになった。


わたあめを半分こ。甘い砂糖の味が、幸せの味がした。


射的で競争。詩織は意外と負けず嫌いで、必死に的を狙う姿が可愛かった。


ヨーヨー釣りで笑い合う。詩織が選んだ水色のヨーヨーが、僕の選んだ青いヨーヨーと同じ色で、それだけで運命を感じた。


焼きそばを食べながら、他愛ない話をする。好きな食べ物、嫌いな科目、最近見た映画。どんな些細な話題でも、詩織と話していると楽しくて、時間があっという間に過ぎていく。


まるで、生まれる前から約束していた再会みたいに、全てが自然だった。


「ねぇ、陽太くん」


「なに?」


「花火……一緒に見てくれる?」


詩織の頬が、少し赤く染まっている。提灯の光のせいなのか、それとも——


「もちろん」


河川敷まで歩く。人込みを避けて、少し離れた場所に陣取る。


そして——


ドーン——!


大輪の花が、夜空に咲いた。


赤、青、緑、金、紫。


色とりどりの光が、次々と夜空を彩る。


「きれい……」


詩織が呟く。でも僕は、花火なんて見ていなかった。


詩織の横顔を見つめていた。


花火の光に照らされた詩織の顔。驚きと喜びで輝く瞳。少し開いた唇。風に揺れる髪。


花火なんかより、千倍、いや一万倍きれいだった。


「その髪飾り、すごく似合ってる」


言葉が、勝手に零れた。


「え?」


詩織が髪飾りに手を当てる。一瞬、寂しそうな、でも愛おしそうな表情を浮かべる。


「これね、母の形見なの」


「……そうなんだ」


「去年、母が亡くなって……最後に、これをくれたの」


詩織の声が、少し震えた。


僕は何も言えなかった。ただ、詩織の横顔を見つめることしかできなかった。


「母が言ってたの。『大切な想いは一度だけ伝えるもの』って」


ドクン。


また心臓が大きく跳ねた。


「一度だけ?」


「うん。本当に大切な言葉は、たった一度。心を込めて、震えながら、涙を堪えながら……たった一度だけ伝えるの」


花火が、次々と打ち上がる。


詩織の瞳に、花火の光が映る。


キラキラ、キラキラ。


まるで涙みたいに、光が揺れる。


「だから母は、最後の最後に『愛してる』って言ってくれた。たった一度だけ。でも、その一度が、今でも私の心に残ってる」


詩織が僕を見た。


「陽太くんは、誰かに伝えたい言葉……ある?」


ある。


今すぐ、君に伝えたい。


好きだ。


好きだ。


好きだ——!


心の中で、何度も何度も叫ぶ。でも——


「まだ……ないかな」


最低だ。


大嘘つきだ。


臆病者だ。


詩織の顔が、一瞬だけ翳った。


分かっていたんだ。彼女は、僕の答えを待っていた。きっと、彼女も同じ気持ちで——


でも僕は、怖かった。


断られるのが怖かった。この幸せな時間が終わるのが怖かった。関係が変わってしまうのが怖かった。


だから——


「そっか」


詩織が微笑む。でもそれは、作り物の笑顔だった。


「でも、いつか見つかるよ。その時は……」


最後の特大花火が、夜空を引き裂いた。


キラキラキラキラ——!


まるで、天が割れたみたいに大きな花火。


詩織の髪飾りが、狂ったように光を反射する。


「勇気を出して、伝えてね。後悔する前に」


その言葉が、予言だったなんて。


呪いだったなんて。


詩織は立ち上がった。浴衣の裾を直しながら、僕に背を向ける。


「今日は本当にありがとう。すごく楽しかった」


「詩織——」


呼び止めたかった。手を掴みたかった。「好きだ」と叫びたかった。


でも、喉が詰まって声が出ない。体が動かない。


臆病者の僕は、ただ立ち尽くすことしかできなかった。


「でもね、陽太くん」


詩織が振り返る。


月明かりに照らされた詩織の顔に、一粒の涙が光っていた。


「私は、もう見つけてるよ。伝えたい言葉」


心臓が止まりそうだった。


まさか——


「また学校でね」


詩織は踵を返して、人混みの中に消えていった。


銀色の髪飾りだけが、最後までキラキラと光っていた。まるで、別れの合図みたいに。


——現在。


「詩織……」


涙が止まらない。


あの時、なぜ言えなかった?


なぜ君の手を掴まなかった?


なぜ追いかけなかった?


なぜ——


青いインクの跡が、また疼く。


ズキズキズキズキ。


後悔の痛み。


失った痛み。


愚かさの痛み。


もしかしたら、詩織はあの時、僕に告白しようとしていたのかもしれない。


『私は、もう見つけてるよ。伝えたい言葉』


あの涙の意味を、今更理解する。


詩織も、告白権を持っていた。


そして、きっと——


「ごめん……ごめん、詩織」


謝っても、もう遅い。


君はもういない。


でも——


銀色の髪飾りを、強く握りしめる。


まだ終わってない。


君を見つける。


必ず見つける。


そして今度こそ——


「好きだ」


誰もいない部屋で、練習する。


「好きだ。詩織が好きだ。世界中の誰よりも、君が好きだ」


もう二度と、君を手放さない。


もう二度と、臆病者にはならない。


たった一度の告白。


それが、僕の全てを賭けた戦いになる。


詩織、待ってて。


今度は必ず、君に届ける。


あの夏祭りの夜に言えなかった、この想いを。

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