第3話 青いインクの約束
図書室は、死んだように静かだった。
「告白の歴史...告白の歴史...」
埃っぽい本棚の間を彷徨う。詩織の手紙を何度も読み返しながら。
『満月の夜、また会える』
でも、どうやって?消えた人間が、どうやって戻ってくるの?
「あった」
革表紙の古い本。開くと、黄ばんだページから過去の物語が溢れ出す。
成功例、失敗例、そして——
「これは...」
手が震える。
『相互消失の悲劇』
20年前、お互いに告白権を持った二人の話。どちらも告白できず、時間切れで二人とも消えてしまった。
でも、その下に小さく書かれた一文。
『ただし、満月の夜、強い想いが——』
ページが破れている。誰かが意図的に破ったみたいに。
「くそっ」
本を閉じた瞬間、一枚の紙が落ちた。
『美術室、青いインク、約束』
詩織の文字だ。まるで、僕を導くように。
美術室に走る。
放課後の美術室は、夕日でオレンジ色に染まっていた。
「ここで...」
去年の秋を思い出す。文化祭の準備で、詩織と二人きりになった日。
「見つけた」
棚の奥に、あの時の青いインクの瓶。まだ半分残っている。
瓶を手に取ると、記憶が鮮明に蘇った。
『きれい』
インクをこぼして慌てる詩織。
『青いインクって、空の色みたい』
そう言って、自分の薬指にもインクをつけた詩織。
『お揃いの印にしよう』
あの時、詩織は何を思っていたんだろう。
告白権を持っていた彼女は、きっと——
「そうか」
僕は自分の薬指を見る。うっすらと残る青い跡。
これは、ただの印じゃない。詩織の告白だったんだ。
言葉にできなかった想いを、青いインクに込めた。
「陽太?」
振り返ると、修平が立っていた。
「こんなところで何してんの?」
「修平、これ見て」
青いインクの瓶を見せる。
「ただのインクじゃん」
「違う、これは——」
説明しようとして、言葉に詰まる。詩織を知らない修平に、どう説明すれば。
「なあ、陽太」
修平が真剣な顔になる。
「さっきから変なんだよ、お前」
「変?」
「存在しない誰かの話ばっかりして」
胸が痛む。でも——
「でもさ」
修平が頭をかく。
「なんか、大事なこと忘れてる気がするんだよな」
「え?」
「美術室に来ると、特に。誰かと一緒に文化祭の準備したような...」
希望が湧く。
「それ詩織だよ!月城詩織!」
「月城...」
修平の目が、一瞬焦点を結ぶ。
「黒髪で...銀色の髪飾りして...」
「そう!思い出して!」
でも、修平は首を振る。
「ダメだ、顔が出てこない」
がっかりする僕を見て、修平は言った。
「でも、信じるよ」
「え?」
「お前がそこまで必死なら、きっといたんだ。その詩織って子」
涙が出そうになる。
「ありがとう」
「で、どうすんの?」
「満月の夜に、会える」
「はあ?」
修平は呆れたような顔をする。でも、すぐに真顔になった。
「手伝うことある?」
「みんなに、詩織のことを思い出してもらいたい」
「了解」
修平はあっさり頷いた。
「よくわかんないけど、お前のためなら」
その夜、僕は必死で詩織の痕跡を探した。
写真、プリント、なんでもいい。詩織が確かにいた証拠を。
そして見つけた。
僕のカメラのメモリーカード。消去し忘れた去年の写真データ。
「あった...」
夏祭りの写真。金魚すくいをする詩織。浴衣姿で、銀色の髪飾りが月光に輝いている。
文化祭の写真。クラスのみんなと笑う詩織。
そして——
「これは」
美術室での一枚。詩織が青いインクで汚れた指を見せて笑っている写真。
その隣で、同じように青いインクをつけた僕。
二人とも、薬指に。
「約束の印...」
写真を印刷する。何枚も、何枚も。
翌日、学校中に詩織の写真を見せて回った。
「この子、知らない?」
「さあ?」
「見たことないな」
みんな同じ反応。でも——
「あれ?でもこの髪飾り...」
「なんか見覚えある気が...」
少しずつ、確実に、詩織の記憶が呼び起こされていく。
「そうだ!」
美咲が突然叫んだ。
「文化祭のポスター!これ描いた子!」
「思い出した?」
「ううん、顔は思い出せない。でも確かに...」
美咲は頭を抱える。
「すごく上手な子がいた。なんで忘れてたんだろう」
広がっていく。詩織の記憶の波紋が。
でも、時間がない。
満月まで、あと2日。
その夜、僕は生徒会室を訪れた。
「先輩」
冬華先輩は、窓辺に立っていた。
「どうしたの?こんな時間に」
「消えた人を取り戻す方法を知りませんか」
単刀直入に聞く。先輩は振り返った。
「やはり、失敗したのね」
「いえ、僕じゃなくて——」
事情を説明する。詩織のこと、青いインクのこと、満月の約束のこと。
先輩は黙って聞いていた。そして——
「青いインクの誓い」
ぽつりとつぶやく。
「知ってるんですか」
「ええ。告白できない者たちが編み出した、もう一つの方法」
先輩は自分の薬指を見る。そこには、うっすらと青い跡が。
「私も、使ったことがある」
「先輩も?」
「でも、相手は応えてくれなかった」
哀しい微笑み。
「でも、あなたたちは違う。相思相愛の青いインク。それは——」
先輩は本棚から一冊の日記を取り出した。
「これは、初代生徒会長の日記。ここに書いてある」
震える手でページを開く。
『青いインクで結ばれし者たちへ。満月の夜、想いが重なる時、奇跡は起こる』
「どういう意味ですか」
「満月の夜、同じ場所で、同じ想いを持つ者が出会えば」
先輩の瞳が、月光のように輝く。
「消えた者も、一時的に姿を現せる」
「本当ですか!」
「ただし」
先輩の表情が厳しくなる。
「それは一度きりのチャンス。その時に正式な告白を成功させなければ、今度こそ永遠に消える」
永遠に。
その言葉が、ナイフみたいに突き刺さる。
「怖い?」
「...はい」
正直に答える。先輩は優しく微笑んだ。
「でも、後悔するよりましでしょう?」
そうだ。何もしないで詩織を失うくらいなら。
「ありがとうございます」
「藤宮君」
帰ろうとする僕を、先輩が呼び止める。
「青いインクは、嘘をつかない。あなたたちが本当に愛し合っているなら、必ず道は開ける」
満月の前日。
僕は屋上にいた。詩織と最後に会った場所。
「明日か...」
スケッチブックを開く。昨日、詩織の机の奥から見つけたものだ。
ページをめくる。
そこには、僕ばかりが描かれていた。
写真を撮る僕。
笑っている僕。
真剣な顔の僕。
居眠りしている僕。
全部、愛おしそうに、大切に描かれている。
「詩織...」
最後のページ。
満月の下、告白する僕の姿。まだ色は塗られていない。
でも、その隣には言葉があった。
『ずっと待ってた。この瞬間を』
涙が、スケッチブックに落ちる。
詩織も、僕を待っていた。僕が詩織を想っていたのと同じくらい、いや、それ以上に。
「陽太!」
修平と美咲が屋上に上がってきた。
「みんな集まったぞ」
「え?」
階段を見ると、クラスメイトたちがぞろぞろと上がってくる。
「なんで...」
「だって」
美咲が写真を掲げる。詩織の写った写真を。
「この子のこと、みんな気になって」
「思い出せそうで思い出せないんだよ」
「誰なんだよ、この子」
口々に言うクラスメイトたち。
完全じゃない。でも、詩織の存在が、確かにみんなの心に引っかかっている。
「明日、わかります」
僕は立ち上がる。
「明日の満月の夜、ここで」
「は?」
「来てくれる人だけでいい。でも」
僕は、みんなを見渡す。
「きっと、大切な友達を思い出せる」
静寂。
そして——
「わかった」
修平が最初に頷いた。
「なんかよくわかんねーけど、来るよ」
「私も」
美咲も頷く。
「この子、きっと大切な子だったんでしょ?」
一人、また一人と頷いていく。
温かいものが胸に広がる。
詩織、君は一人じゃない。みんな、君を待ってる。
そして——
満月の夜が来た。
僕は一番に屋上に上がった。
月が、信じられないくらい大きく、明るく輝いている。
青いインクの瓶を握りしめる。左手の薬指の跡が、月光に照らされてほんのり光る。
「詩織、聞こえる?」
風が吹く。桜の葉がさわさわと鳴る。
「僕はここにいる。君を待ってる」
時計を見る。午後9時。
約束の時間だ。
一人、また一人と、クラスメイトたちが集まってくる。
「本当に来たんだ」
「だって気になって」
「この写真の子、誰なんだよ」
みんな、詩織の写真を持っている。
そして——
月光が、急に強くなった。
屋上全体が、青白い光に包まれる。
「なんだ?」
「きれい...」
みんなが月を見上げる中、僕は一点を見つめていた。
屋上の中央。
光が集まり、渦を巻き、そして——
「詩織!」
半透明の姿で、詩織が現れた。
銀色の髪飾りが、月光を反射してきらきらと光る。
「え?」
「誰?」
「あ...」
クラスメイトたちの間に、ざわめきが広がる。
詩織は、ゆっくりと顔を上げた。
「みんな...」
その声は、風みたいに儚くて。
「久しぶり」
瞬間、何かが弾けた。
「詩織!」
美咲が叫ぶ。
「思い出した!月城詩織!」
「そうだ、美術部の!」
「文化祭のポスター描いてくれた!」
次々と、記憶が蘇る。
詩織の目から、涙がこぼれる。
「覚えてて、くれたんだ」
「詩織!」
僕は駆け寄る。でも、まだ触れることはできない。
「陽太」
詩織が僕を見つめる。
「来てくれた」
「当たり前だ」
青いインクの瓶を見せる。
「これ、覚えてる?」
「もちろん」
詩織が微笑む。
「私たちの、約束の印」
「詩織、聞いて」
僕は深呼吸する。今度こそ、ちゃんと。
でも詩織は、首を振った。
「待って。先に言わせて」
「え?」
「前は言えなかったから」
詩織は、震える声で言葉を紡ぐ。
「藤宮陽太君」
月光の下、詩織が一歩前に出る。
「私、あなたが好きです」
時が止まる。
「ずっと、ずっと前から。幼なじみとしてじゃなくて、一人の男の子として」
詩織の姿が、少しずつはっきりしていく。
「写真を撮るあなたが好き。優しい笑顔が好き。不器用なところも、全部全部、大好き」
完全に実体化した詩織が、僕の前に立つ。
「だから、お願い」
詩織が手を差し出す。
「私と、付き合ってください」
静寂。
そして——
「こっちのセリフだよ」
僕は詩織の手を取る。温かい、確かな温度。
「月城詩織さん」
膝をつく。
「僕も、君が好きだ。ずっと、ずっと前から」
青いインクの瓶を開けて、詩織の薬指にそっと塗る。
「これは約束。もう二度と離さない」
詩織も、僕の薬指に青いインクを塗る。
「うん、約束」
二人の薬指が重なる瞬間、青い光が弾けた。
歓声が上がる。
クラスメイトたちの祝福の声。
でも僕には、詩織の声しか聞こえない。
「ただいま、陽太」
「おかえり、詩織」
満月が、優しく二人を照らしていた。
青いインクの約束は、永遠の愛に変わった。
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