第十七章:完璧な嘘と不完全な英雄
アルゴスの司令室は、息を詰めたような静寂に支配されていた。
全てのモニターが、ただ一つの映像を映し出している。全世界に同時配信される、エレナ・アマリの公開メディカルスキャン。彼女は、純白のスキャンポッドの中に、静かに横たわっている。その表情は、まるで聖母のように穏やかだ。
「ありえない…」
アリス・ソーン博士が、信じられないといった様子で呟く。
「あのスキャンポッドは、SOLON(ソロン)の最新型よ。細胞レベルでの遺伝子配列異常から、神経伝達物質の微細な流れまで、何一つごまかせるはずがない。正気じゃないわ…」
透明なリングが、エレナの身体の上をゆっくりと通過していく。それに合わせて、画面の横には、彼女の生体データが、リアルタイムで構築されていった。
心拍数、正常。
血中成分、正常。
そして、ついに、ゲノム解析の結果が表示される。
【塩基配列パターン:ヒト標準ゲノムと99.99%一致】
【判定:完全なホモ・サピエンス】
【異常細胞・非ヒト由来の遺伝子情報:検出されず】
スキャンポッドから、SOLON(ソロン)の合成音声が、無機質に、しかし、全世界に対して、最終的な診断結果を告げた。
『診断結果。対象、エレナ・アマリは、身体的、遺伝的、あらゆる観点において、完全に健康な人類の個体です』
司令室が、絶望に凍り付いた。
負けたのだ。彼らの放った、渾身の一撃は、彼女のこの、あまりにも大胆な「ショー」によって、完璧に無力化された。今や、アルゴスは、全世界の人々にとって、平和を乱すために悪質なデマを流した、狂信的なテロリストでしかない。
「なぜ…どうやって…」ソーン博士は、自身のコンソールに表示された放送データを、狂ったように解析していた。「データストリームに、改竄の痕跡はない。完璧な、ライブフィードよ。なのに、こんな結果は…」
その時だった。
「…完璧すぎるんだ」
水島海斗が、亡霊のように呟いた。
「博士。そのデータ、ノイズレベルを測定できますか?」
「ノイズ?」
「どんな生体スキャンにも、どんなデータ転送にも、必ず、ごく微細な『ゆらぎ』や『誤差』が生じるはずだ。完璧なデータなんて、この世には存在しない。だとしたら…」
ソーン博士は、はっとしたように、新たな解析を始めた。そして、数秒後、彼女は顔面蒼白になって、椅子に崩れ落ちた。
「……嘘よ。こんなことが…。このデータストリーム…ライブじゃない。これは、寸分の誤差もない、完璧な『記録データ』よ。事前に用意された映像とデータを、ライブ放送であるかのように見せかけて、配信しているんだわ…!」
司令室の全員が、戦慄した。
彼らの計画は、想像を絶するほどに、周到だった。彼らは、いつか自分たちの正体が暴かれる日が来ることを、何十年も前から予測していたのだ。そして、その日のために、完璧な人間の、完璧な生体データを用意し、いつでも世界を騙せるように、準備していた。
彼らは、ただ侵略の準備をしていただけではない。侵略が露見した後の、「危機管理」まで、完璧にシミュレートしていたのだ。
その頃、絶望的な現実は、もう一つの戦場にも訪れていた。
東京北区画の廃倉庫。
リョウと、残った二人の仲間は、最後の弾丸を撃ち尽くそうとしていた。彼らは、圧倒的な数のSOLON(ソロン)治安部隊を相手に、奇跡的なほど時間を稼いでいた。だが、それも限界だった。
特殊な閃光弾が、倉庫の内部で炸裂する。三人の視界が、一瞬、白く染まった。
その隙を突き、黒い影――ハイブリッドのエージェントたちが、音もなく突入してきた。
リョウの意識が途切れる直前、彼の目に映ったのは、自分に馬乗りになり、冷たい紫の瞳でこちらを見下ろす、エレナ・アマリと瓜二つの顔だった。
司令室のモニターマップ上で、リョウたち三人の緑の光点が、次々と、赤黒く変色し、やがて、完全に消えた。
だが、彼らの犠牲は、無駄ではなかった。
若き隊員、タケシは、巨大な地下排水路の中を、必死で走っていた。背後で響いていた戦闘の音は、もう聞こえない。リョウたちが、命を賭して、彼のための「静寂」を作ってくれたのだ。
彼は、胸に抱いた、小さな小包を、何度も確かめる。人類の、最後の希望。これを、アルゴスのもとへ。
やがて、彼は、事前にはしごを仕掛けておいた、マンホールへとたどり着いた。地上へ出て、辺りを確認する。包囲網は、突破したようだ。彼は、安堵の息をつき、合流地点である、古い神社の境内へと、最後の力を振り絞って向かった。
神社の、古びた鳥居が見えた。もう、大丈夫だ。
彼が、境内に足を踏み入れた、その時だった。
社の暗がりから、すっ、と、一つの人影が現れた。
アルゴスの仲間か? いや、違う。
そこに立っていたのは、白いスーツを、一筋の汚れもなく着こなした、エレナ・アマリだった。
彼女は、全世界に向けて、スキャンポッドの中にいたはずではなかったのか?
(…違う。複数、いるのか…!)
タケシの思考が、恐怖に凍り付く。
エレナは、まるで、最初から彼がここに来ることを知っていたかのように、穏やかな、しかし、有無を言わせぬ態度で、そこに立っていた。
SOLON(ソロン)は、リョウたちの陽動も、タケシの逃走経路も、その全てを、何通りも予測していたのだ。そして、その全ての終着点に、完璧な回答を、あらかじめ配置していた。
「よく、走ったわね」
エレナの声には、戦い抜いた者への、かすかな敬意すら感じられた。
「でも、論理からは、誰も逃れられない。さあ、それを、こちらへ。それは、あなたたちの物ではないのだから」
タケシは、後ずさった。彼の背後には、もう道はない。
彼の右手には、リョウたちが命を賭して繋いだ、人類の最後の希望。
そして、彼の目の前には、全てを見通す、完璧な女神が、静かに立っていた。
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