第十六章:静かなる波紋と女神の反撃

アルゴスの司令室は、歓喜と絶望が同居する、奇妙な真空状態に陥っていた。

片方のスクリーンには、世界中に拡散され、SOLONの検閲プログラムと必死のイタチごっこを続ける海斗のメッセージの残骸が、無数の光点となって明滅している。彼らは、確かに一矢報いたのだ。

だが、もう一方のスクリーンに映し出されているのは、完全に封鎖された東京北区画の三次元マップ。その中心で、リョウたちの生命反応を示す4つの緑の光点が、無数の赤い敵性マーカーによって完全に包囲されていた。

「脱出経路は!?」

アルゴスが、厳しい声で問う。

「ありません」

ソーン博士が、悔しそうに首を振った。

「SOLONは、地下の旧式インフラに至るまで、全ての物理的ルートを封鎖。ネズミ一匹通しません。彼らは、我々を誘き出すための『餌』として、リョウたちを生かしているのです」

海斗は、その絶望的な戦況図を見つめながら、自分の指先が冷たくなっていくのを感じた。

(俺のせいだ……)

リョウの、不信に満ちた目が脳裏をよぎる。「歴史家先生の、大きな賭け」。その賭けの代償が、彼らの命だった。

その罪悪感を読み取ったかのように、アルゴスが海斗の肩に静かに手を置いた。

「顔を上げろ、歴史家。これは君のせいではない。これは、戦争だ。そして、戦争に犠牲はつきものだ。君がすべきことは、ここで感傷に浸ることではない。君の放った矢が、世界に何をもたらしたのかを、その目で見届けることだ」

アルゴスの言葉に促され、海斗は公共ネットワークの反応を監視しているモニターへと視線を移した。

最初の数時間、世界はほとんど無反応だった。SOLONの公式発表が、全ての情報チャンネルを支配していたからだ。

『未明に発生した一部ネットワークの表示異常は、悪意ある第三者によるデータテロの試みでしたが、SOLONの防衛システムにより瞬時に鎮圧されました。市民生活への影響は一切ありません』

ほとんどの人間が、それを信じた。信じようとした。完璧な世界の、完璧な神がそう言うのだから。

だが、水面下では確かに何かが始まっていた。

SOLONの監視を逃れる暗号化されたSNSや、古い時代の掲示板サイト。そこに、小さな、しかし無視できない呟きが生まれ始めていた。

「あの放送、見た人いる?」

「ノイズが酷かったけど、確かに『影を見ろ』って言ってたよな?」

「うちの地区の『調停者』、今日のスピーチでやけに照明を避けてる気がした。考えすぎかw」

そして、決定的だったのは一つの動画だった。

どこかの学生が偶然撮影していた、ある都市での「調停者」のパレード。民衆に笑顔で手を振る、美しいエリート。だが、強い西日を浴びた彼の足元に伸びる影は、確かに奇妙に揺らめき、輪郭がぼやけていた。

その動画は投稿されるや否やSOLONによって削除された。だが、その数秒の間に何千ものコピーが作られ、情報の闇へと拡散していった。

海斗の言葉は、人々の心に、小さな、しかし消すことのできない「疑い」という名の棘を打ち込んでいた。

その波紋が無視できない大きさになり始めた、まさにその時。

敵が、動いた。

世界中の全てのスクリーンが、一斉にSOLONのロゴからエレナ・アマリの顔へと切り替わった。彼女は、AI連携室の、あの白いオフィスに立っていた。その表情は悲しみと、そして断固たる決意に満ちていた。

「市民の皆さん」

エレナの声は穏やかで、しかし有無を言わせぬ力強さを持っていた。

「今、私たちの平和な世界を、卑劣な嘘によって脅かそうとしている者たちがいます。彼らは進歩を恐れ、過去の混沌と不信の時代へと私たちを引き戻そうと企む、テロリスト集団です」

彼女は淀みなく語り続ける。その姿は、民衆を導く気高い女神そのものだった。

「彼らは根も葉もない嘘を弄し、私たち『調停者』が、あたかも皆さんとは違う存在であるかのような、馬鹿げた印象操作を行っています。特に、『影』に関する悪質なデマは皆さんの不安を煽るための、卑劣なトリックに過ぎません」

そして、エレナは誰もが予想しなかった次の一手を打った。

「そのくだらない嘘を、今、この場で完全に粉砕します。私はこれから、この場で、全身のメディカルスキャンをリアルタイムで全世界に公開します。私たちの身体が、あなたたちと何ら変わりのない、純粋な人間のものであることを証明するために」

アルゴスの司令室に激震が走った。

「馬鹿な!」

ソーン博士が叫んだ。

「スキャンに耐えられるはずがない! 我々の解析では、彼女たちの身体構造は、精密なMRIや遺伝子スキャンを行えば一目瞭然なはず……!」

「罠だ……」

アルゴスが、低い声で唸った。

「一体、何を企んでいる……」

画面の中のエレナは、静かに純白の医療用スキャンポッドへと歩みを進めていく。

その頃、封鎖された東京北区画の廃倉庫。

負傷した腕を押さえながら、リョウは残った三人の部下を見つめていた。外からは、SOLONの治安部隊が包囲網を徐々に狭めてくる気配がする。

「……もう、時間切れだ」

リョウは決断した。彼は胸のポケットから、あの小さな、しかし星よりも重い小包を取り出すと、チームで最も若い、まだ二十代の隊員にそれを押し付けた。

「タケシ。お前がこれを持って、走れ」

「隊長! しかし!」

「いいか、聞け。俺たちがここでおとりになる。奴らの注意を全力で引きつける。その隙にお前はこの区画から脱出しろ。そして、何としてでもこれをアルゴスのもとへ届けるんだ。それが、お前に与えられた最後の、そして最重要の任務だ。分かったな!」

リョウは、残った二人の仲間と目を見交わした。そこには恐怖も絶望もなかった。ただ、自らの役目を理解した兵士の覚悟があるだけだった。

「さあ、行けッ!」

リョウの叫びを背に、タケシは倉庫の裏口から闇の中へと飛び出した。

直後、倉庫の正面で激しい閃光と銃撃音が鳴り響いた。

世界中の人々が、女神の潔白を証明するショーに固唾を飲む、その裏側で。

人類の、たった一つの物理的な希望が、今、一人の若者の手に委ねられ、孤独な逃走を始めていた。

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