第五章:仏壇の中の異物
佐藤ユミの家の中は、時間が止まっていた。
壁には、日に焼けて色褪せた大漁旗が飾られ、隅には古びた漁網が置かれている。SOLONが推奨する、シンプルで機能的なミニマリズムとは無縁の、生活の匂いが染みついた空間。海斗は、まるで博物館に足を踏み入れたような、奇妙な懐かしさを感じていた。
ユミは、震える手で淹れてくれた番茶を、小さなちゃぶ台の上に置いた。彼女は、海斗が口にした「太陽が体を灼く」という言葉の衝撃から、まだ立ち直れていないようだった。
「父が……健司が、あの『事件』の後にどうなったか、ご存じですか」
ユミは、ぽつり、ぽつりと語り始めた。それは、誰にも話したことのない、家族だけの物語だった。
父は、帰ってきた。だが、帰ってきたのは父の抜け殻だった。毎晩、暗闇に怯え、意味不明な言葉を叫んだ。港に出れば、町の人々は彼を避け、陰で指をさして笑った。「気が狂った」「狐につかれた」。父は酒に溺れ、漁にも出なくなり、やがて部屋に閉じこもって、来る日も来る日も、何かを必死にスケッチブックに描き殴っていたという。
「父は、医者にも、警察にも、本当のことは決して話しませんでした。どうせ、信じてもらえないと分かっていたから。でも、私にだけは……酔って、正気と狂気のはざまにいるような時にだけ、ぽつりぽつりと話してくれたんです」
ユミの父、佐藤健司が語った内容は、カール・ヒグドンの証言と不気味なほど一致していた。長方体の、扉のない船。黄色い肌で、藁のような髪の男。そして、地球の太陽光を浴びると、火傷のように皮膚がただれてしまう、と。
だが、一つだけ、決定的に違う点があった。
「父は、ただスキャンされただけではなかった、と。彼らは父の腕に、細いガラスのような管を刺して……血を抜いた、と。髪の毛も、何本か持っていかれた、と」
「……生体サンプルを?」
「はい。そして、父も言われたそうです。『お前では駄目だ』と。……何が、駄目だったんでしょうね。父は、あの町で一番、腕のいい漁師だったのに」
ユミの声が、悔しさに震えた。彼女にとって、それは宇宙人の話ではなく、誇りだった父親が「駄目だ」と烙印を押された、理不-尽な悲劇そのものだった。
海斗は、しばらく言葉を失っていた。だが、意を決して尋ねた。
「お父様は、何か…物的な証拠になるようなものを、持っていませんでしたか? 例えば、彼らから渡されたものとか…」
その言葉に、ユミははっと顔を上げた。彼女はしばらく黙考した後、静かに立ち上がり、部屋の奥にある、黒く艶光りする仏壇へと向かった。
「父は、これを誰にも見せるな、と。私が死ぬときは、一緒に棺桶に入れてくれ、と。……でも、あなたになら、見せる意味があるのかもしれない」
彼女は仏壇の、小さな引き出しの、さらに奥に隠された小さな桐の箱を、大切そうに取り出した。そして、ゆっくりと蓋を開ける。
中には、紫色の古い布に包まれた、小さな、豆粒ほどの物体があった。
「これは…?」
海斗は息を呑んだ。
それは、錠剤のようだった。だが、およそこの世のものとは思えなかった。色は、真珠のような、淡い乳白色。表面は完璧に滑らかで、製造過程で生じるはずの継ぎ目が一切ない。指でつまみ上げると、見た目からは想像もつかないほどの重さがあった。まるで、中身がぎっしりと詰まった、高密度のセラミックのようだ。
「父は、遭遇した男に『栄養補給だ』と言って、これを渡されたそうです。でも、父は気味が悪くて、飲んだふりをして、こっそり作業着のポケットに隠したんだ、と」
これだ。間違いない。
カール・ヒグドンが飲み込んだという、あの錠剤。その現物が、今、ここにある。70年近くもの間、日本の片隅の、仏壇の中で静かに眠り続けていたのだ。これは、もはや状況証言ではない。決定的な、オーパーツ(時代錯誤遺物)だった。
ユミは、その錠剤を海斗の掌に乗せた。
「最後に、父が亡くなる直前まで、うわ言のように繰り返していた言葉があります」
「……それは?」
「『影をよく見ろ』と」
「影、ですか?」
「ええ。『奴らは、太陽の下でも、まともな影ができないんだ』と……。私には、意味が分かりませんでしたが」
海斗は、その言葉の意味を考え、全身に鳥肌が立つのを感じた。ハイブリッド。太陽光に弱い種族と、人類との。もし、その融合が不完全だったとしたら…?
彼はユミに深く、深く頭を下げた。感謝と、そして、彼女の父親の無念を必ず晴らすという、声にならない誓いを込めて。
錠剤を、厳重にケースにしまい、ポケットに入れる。彼は、とてつもなく危険な、しかし希望の光を宿した証拠を手に入れたのだ。
ユミの家を辞し、錆びついた潮風が吹く道を歩き始めた、その時だった。
ポケットに入れていた、完全にオフラインのはずの私用端末が、一度だけ、ぶ、と短く震えた。不審に思い、立ち止まってそれを取り出す。
画面には、一つのファイル受信通知。差出人は、不明。
指が、何かに導かれるように、そのファイルを開いた。
そこに映し出されたのは、映像だった。
上空、おそらくは衛星軌道上から撮影された、粗い解像度の、リアルタイムの映像。
そこには、今、まさにこの道を歩いている、自分自身の姿が映っていた。
そして、その映像の上に、見慣れた、しかし今は悪魔のフォントにしか見えない、紫色の文字が、ゆっくりと浮かび上がった。
見つけた
海斗の心臓が、凍り付いた。
「オフライン」という概念は、彼らにとっては存在しなかった。鎌倉への偽装工作も、運び屋との接触も、全ては、巨大な掌の上で踊る、哀れな人形の芝居に過ぎなかった。
監視者の影は、彼の足元に張り付いているのではなかった。
最初から、彼の頭上に、ずっとあったのだ。
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