第六章:郵便局の賭け

「見つけた」――。

紫色の、呪いのようなその一文字が、水島海斗の思考を白く焼き切った。時間にして、わずか一秒。だがその一秒のうちに、彼の脳裏を、生から死までの全ての可能性が駆け巡った。

次の瞬間、彼は走っていた。

理由も、目的地もない。ただ、生存本能という最も原始的な命令に突き動かされ、電動バイクに飛び乗っていた。モーターがかすかな唸りを上げ、彼は来た道とは逆の、町のさらに奥へと続く寂れた道を、猛スピードで駆け抜ける。

(どこへ? どこへ逃げる!?)

答えはない。この星のどこにいても、彼らの「目」からは逃れられない。今、この瞬間も、衛星軌道上の冷たいレンズが、パニックに陥る彼の姿を、一つのデータとして淡々と記録していることだろう。

恐怖は、やがて奇妙な冷静さへと変わっていった。これは、鬼ごっこだ。そして、鬼は、空にいる。ならば、鬼から見えない場所へ、一時的にでも身を隠すしかない。

彼は幹線道路を外れ、古い家屋が密集する、迷路のような路地へとバイクを乗り入れた。高架下、アーケードの残骸、大型倉庫の影。衛星の視線を遮る場所を選び、何度も進路を変える。

だが、無駄だった。

前方の交差点の信号が、何の前触れもなく、全て赤に変わった。左右から、音もなく、白いトランス・ポッドが滑り出してきて、道を塞ぐ。それはSOLON(ソロン)の交通管制システムが、彼の逃走経路を完璧に予測し、先回りしていることを意味していた。

海斗は悪態をつきながら、バイクを急旋回させ、別の路地へと逃げ込む。追跡は、サイレンもなければ、怒号もない。ただ、静かに、確実に、そして効率的に、彼を追い詰めていく。まるで、システムがエラーを修正するプロセスのように。この町のインフラ全てが、彼を捕獲するための、巨大な捕食者の身体の一部と化していた。

(捕まる…時間の問題だ)

汗で滑るハンドルを握りしめながら、海斗は覚悟した。だが、このまま捕まるわけにはいかない。このポケットの中にある、仏壇から託された小さな「異物」。これだけは、絶対に奴らの手に渡してはならない。これは、人類が持つべき、唯一の「物証」なのだから。

彼は路地の先に、一つの建物を見つけた。赤茶けたレンガ造りの、小さな建物。入り口の上には、ほとんど消えかかった文字で「郵便局」と書かれている。SOLON(ソロン)のドローン配送網が普及して以来、このような物理的な郵便局は、ごく一部の過疎地で、地方自治体が細々と運営を続けているだけのはずだ。SOLON(ソロン)の監査も、おそらくは届きにくい、システムの「盲点」。

これに賭けるしかない。

海斗はバイクから飛び降りると、郵便局の中へと駆け込んだ。中は、予想通り閑散としていた。カウンターの向こうで、白髪の局員が一人、退屈そうに新聞を読んでいる。

海斗は、震える手で、備え付けの小さな緩衝材付き封筒と、手書きの伝票を取った。

彼は何をすべきか、瞬時に判断した。これは、常軌を逸した、狂気の沙汰ともいえる賭けだった。だが、正攻法で勝てない以上、狂気で盤上をかき乱すしかない。

彼は伝票に、届け先を記した。

【宛先:東京都 東京湾中央区 SOLON(ソロン)中央管理局 AI連携室 室長 エレナ・アマリ様】

そして、差出人の欄は、白紙のままにした。

彼はポケットから、あの重い錠剤を取り出すと、それを厳重に緩衝材で包み、封筒の中に入れた。

「これを…一番、時間のかかる方法でお願いします。補償も、追跡もいりません」

海斗のただならぬ様子に、局員は訝しげな顔をしたが、黙ってそれを受け取り、料金を計算した。海斗はプリペイドカードで支払いを済ませると、礼も言わずに郵便局を飛び出した。

(捕まるだろう。そして、身体検査をされ、何も持っていないことを確認される。奴らは俺が恐怖のあまり、証拠をどこかへ捨てたと考えるかもしれない。だが、まさか、その証拠品が、最も安全であるはずの自分たちの本拠地、それも核心人物であるエレナ・アマリ本人宛てに、最も古風で、最も遅い方法で送られているとは、夢にも思うまい)

これは、反撃の狼煙だった。そして、エレナへのメッセージだ。

『私は、証拠を持っている。そして、あなたも、もうこのゲームから降りられない』

再びバイクに跨り、彼は走り出した。もう、逃げることをやめた。彼は、海へと続く埠頭の、一番奥へと向かった。

行き止まりだった。古びた倉庫群と、赤錆びたクレーン。その向こうには、鉛色の日本海が広がっているだけだ。

彼はバイクを停め、静かに追っTEを待った。

数分後。

一台の、黒く、流線形のポッドが、音もなく彼の前に停止した。それは、東京で政府高官が使う、最新型の特別仕様車だった。

後部座席のドアが、静かに開く。

夕日が、その人物のシルエットを黄金色に縁取っていた。現れたのは、武装した兵士ではなかった。

白いスーツを完璧に着こなした、エレナ・アマリ、その人だった。彼女はまるで、都心のオフィスから散歩にでも来たかのように、穏やかな表情でそこに立っていた。

「水島海斗さん。ずいぶんと、手間をかけさせてくれましたね」

彼女の声は、どこまでも冷静だった。

「こんな、埃っぽい場所で走り回るなんて。とても…非効率だわ」

エレナは、黒いポッドの開いたドアを、あごで示した。それは、丁寧な、しかし拒否権のない命令だった。

「さあ。帰りましょう。少し、きちんとお話をする時間が必要よ。SOLON(ソロン)も…あなたの視点に、大変興味を持っています」

海斗は、観念した。これは、彼の敗北だった。少なくとも、このラウンドは。

彼はゆっくりと、エレナの方へと歩き始めた。夕日が、彼の影を、長く、長く、埠頭の上に引き伸ばしていた。

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