【第二部:静かなる戦争】 第四章:忘れられた町の証人
エレナ・アマリからのメッセージは、氷の針となって水島海斗の心臓に突き刺さっていた。それは、親切な提案の仮面を被った、チェスにおける「チェック(王手)」の宣言だ。こちらのキングがどこに動こうとしているか、完全に見抜かれている。
週末の間、海斗は眠れなかった。彼の完璧に空調管理された静かな部屋は、いつの間にか息の詰まる独房と化していた。壁の向こう側で、SOLONという巨大な知性が、彼のあらゆる生体反応を監視している。エレナ・アマリという美しい監視者が、彼の次の一手を、静かに待っている。
だが、恐怖は、ある一点を超えると、奇妙な覚悟へと姿を変える。
(彼らが俺を止めたいのなら、それは、俺が進もうとしている道が正しいからだ)
穴は、お前を飲み込むぞ――あの警告は、脅しであると同時に、その先に何かがあることの証明でもあった。
月曜の朝。海斗は行動を開始した。
まず、彼は表向き、完璧に従順な市民を演じた。自身の公用端末を使い、SOLONが推奨した「鎌倉歴史探訪コース」の三日間のパッケージツアーを予約した。交通ポッド、宿泊施設、食事プラン、その全てをSOLONの最適化された提案通りに。彼のデジタル上の痕跡(ゴースト)は、今頃、鎌倉へと向かっているはずだ。
だが、生身の海斗は、管理局の通用口から出ると、SOLONの交通網を避け、地下深くへと潜った。そこは、貨物輸送用の旧式オートカーゴが走る、薄暗いサービスルートだ。人の気配はなく、油と埃の匂いがする。彼はそこで、非合法な「運び屋」と接触し、身元を隠せるプリペイド式のカードキーと、旧式の電動バイクを手に入れた。
東京の輝くスキン層を一枚剥がし、その下に広がる、忘れられた血管のような道を、彼は北へ、北へと向かった。
都市の境界線を越えると、世界の色彩が急速に失われていくのを、海斗は肌で感じた。ナノマシンによって常に清潔に保たれた壁面は、雨だれの染みがついたコンクリートに変わった。垂直農場(アグリタワー)の人工的な緑は姿を消し、代わりに、放置されて荒れ果てた、本物の田畑が広がっていた。
SOLONの恩寵は、この国の一部にしか届いていない。効率が悪いと判断された土地と人々は、ただ緩やかに、忘れ去られていくだけなのだ。海斗は、自分が今まで見てきた「世界」が、注意深く編集された、美しいハイライト映像に過ぎなかったことを思い知らされた。
一日半をかけ、電動バイクのバッテリーを交換しながら、彼はついに目的地の小さな港町にたどり着いた。北陸の、寂れた漁師町。潮風は錆の匂いを運び、空には、けたたましくウミネコが舞っている。人影はまばらで、すれ違うのは腰の曲がった老人ばかりだった。
佐藤ユミ。彼女を見つけ出すのは、骨が折れた。役場に残っていた古い住民台帳は、個人情報保護を理由に閲覧を拒否された。彼は作戦を変え、港の近くで唯一営業している、古びた雑貨屋ののれんをくぐった。
店番をしていた老婆に、彼は作り話をした。自分は歴史民俗学を研究する大学院生で、昭和の漁師の生活について調べている、と。そして、佐藤健司という漁師の名前を口にした。
老婆の顔が、かすかに曇った。
「ああ……健司さんのことかい。もうずいぶん前に亡くなられたよ。……あんた、あの人の『ホラ話』に興味があるのかい?」
「ホラ話、ですか?」
「ああ。『空飛ぶ箱』だの『藁の髪の男』だの…。あれで、あの人はすっかり、おかしい人扱いされてねえ。娘さんのユミさんも、苦労したもんさ」
老婆から、ユミが今も町外れの古い家で一人で暮らしていることを聞き出した。
海斗がその家を訪ねると、戸口に出てきたのは、痩身の女性だった。年の頃は70歳前後。深く刻まれた眉間のしわが、彼女のこれまでの人生を物語っていた。
「……何の御用でしょう」
ユミは、訪問者を射抜くような、警戒心に満ちた目で言った。
海斗は、雑貨屋で使ったのと同じ、大学院生という仮面を被った。
「佐藤健司さんの、昔のお話について、少しお伺いできればと…」
「父の話?」ユミの声が一層、硬くなった。「あの、馬鹿げた話のことでしょう。お断りします。父は、あのせいで人生をめちゃくちゃにされたんです。今さら、見せ物にされたくありません」
彼女はそう言うと、ぴしゃりと戸を閉めようとした。
「待ってください!」
海斗は、思わず声を張り上げていた。彼は賭けに出るしかなかった。ポケットから、深層書庫で見つけた記事――スプリンクル博士の論文の一部を印刷したもの――を取り出した。もちろん、他の体験者の個人情報は塗りつぶしてある。
「僕は、オカルトに興味があるのではありません。歴史家として、事実を調べているんです。あなたのお父様と同じ体験をした人間が、世界中にいるとしたら…あなたはどう思いますか?」
ユミの動きが、止まった。
海斗は、最後のカードを切った。彼は声を潜め、彼女の目を見て、はっきりと告げた。
「お父様は、言いませんでしたか? 遭遇した相手について……『自分たちの太陽は弱く、地球の太陽は体を灼く』と」
その瞬間、佐藤ユミの顔から、血の気が引いた。長年、心を閉ざしていた硬い鎧が、粉々に砕け散る音が聞こえたようだった。彼女の唇が、かすかに震える。
「……どうして……」
絞り出すような、か細い声が漏れた。
「どうして、あなたがその言葉を……? 父は……父は、毎晩うなされながら、そう言っていた…。あいつらの太陽は、間違ってるんだ、って……」
70年の時を超え、ワイオミングの森と、日本の小さな港町が、一つの恐怖で繋がった。海斗は、もはや疑っていなかった。彼は今、真実の扉の、すぐ前に立っている。そして目の前の女性は、その扉を開けるための、唯一の鍵を握っていた。
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