第三章:過去からの囁き
緑色の文字が消えた後、水島海斗はどれくらいの時間、息を止めていたのだろう。彼がようやく喘ぐように空気を吸い込んだ時、その音は静まり返った自室に、不釣り合いなほど大きく響いた。
(彼らは、君が見ていることを知っている)
脳内で、無機質なタイプライターの音が反響する。もはや疑う余地はなかった。これは彼の妄想ではない。彼の行動は、何者かによって完璧に監視されている。SOLON(ソロン)か。エレナ・アマリか。それとも、メッセージの主である、正体不明の「彼ら」か。
その日から、世界は姿を変えた。自宅の壁に埋め込まれたスマートパネルも、街角のセキュリティカメラも、彼の網膜に情報を投影するARグラスも、全てが敵の目になった。完璧な利便性は、完璧な監視と同義だった。このガラス張りのユートピアでは、隠れる場所などどこにもない。
週末の間、海斗は死んだように自室にこもった。ヒグドン・ファイルを開くことも、アンダー・ウェブにアクセスすることもしなかった。ただ、思考を巡らせる。デジタルな手段での調査は、もう不可能だ。相手は、情報の海を支配する存在。そこで戦いを挑むのは、神にチェスを挑むようなものだ。
ならば、どうする。
(穴を掘るな、か…)
警告は、逆説的にヒントを与えてくれていた。デジタルの「穴」が駄目なら、物理的な「穴」を掘るしかない。AIの光が届かない、アナログの過去へと。
月曜の朝、海斗はやつれた顔で中央管理局に出勤した。そして、ほとんど使われることのない申請フォームをSOLON(ソロン)に提出した。
「申請。第14深層書庫へのアクセス。目的:20世紀後半における、地方共同体の民間伝承及び風俗災害に関する紙媒体資料の現物照合」
それは、彼の部署の本来の業務範囲であり、SOLON(ソロン)にとっても「非効率だが、記録保存上必要な作業」と判断される、絶妙な申請理由だった。
数秒後、承認のチャイムが鳴った。
第14深層書庫は、管理局の地下、最も深いレベルにあった。そこは、SOLON(ソロン)が支配するこの世界の、唯一の例外のような場所だった。温度と湿度が厳密に管理された空気は、古い紙と、インクと、そして「時間」そのものの匂いがした。金属製の巨大な書架が、まるで古代の巨人の肋骨のように、延々と続いている。
ここには、SOLON(ソロン)の監視カメラも、常駐の警備員もいない。あるのは、資料の劣化を防ぐための、最低限の環境維持システムだけだ。海斗は、70年ぶりに深海から引き揚げられた潜水艦の乗組員のような、かすかな解放感を覚えていた。
彼は、レオ・スプリンクル博士の記事にあった、曖昧な記述だけを頼りにしていた。
『日本の、ある地方共同体で起きた、1970年代後半の同様のケース…』
気の遠くなるような作業だった。彼はまず、1975年から1980年までの、全ての地方新聞の縮刷版が収められたセクションに向かった。北から南へ、一つずつ、マイクロフィルムをスキャナーにかけ、高速で紙面を読み飛ばしていく。彼が探しているのは、大きな事件ではない。むしろ、小さく、取るに足らないと判断され、忘れ去られたであろう記事。UFO、神隠し、原因不明の騒動、集団ヒステリー。
一日が過ぎ、二日が過ぎた。彼の目は、無数の死んだ文字の羅列によって、焼け付くように痛んだ。諦めかけた、三日目の午後だった。
あった。
北陸地方の、今はもう名前も変わってしまったであろう小さな町の、地方新聞の片隅。1978年11月4日付。指先ほどの、ベタ記事だった。
【漁師、一時行方不明後、無事保護。不可解な言動も】
記事の内容はこうだ。地元の漁師、佐藤健司(さとう けんじ)氏(当時38歳)が、未明に一人で漁に出たまま連絡が途絶え、一日中行方不明となった。保安庁や漁協が捜索したところ、翌朝、彼は自身の漁船の中で、ぼんやりと座り込んでいるところを発見された。怪我はなかったが、ひどく混乱しており、「空から金属の箱が落ちてきた」「藁の髪の男に声をかけられた」などと、意味不明なことを繰り返し話していたという。記事の最後は、「過労による幻覚か、あるいは酒に酔っていた可能性も」という、警察の見解で締めくくられていた。
(藁の髪の男…)
間違いない。ワイオミングのカール・ヒグドン。南米の農夫。ロシアの元教師。そして、日本の漁師。点と点が、70年の時を超えて、今、一本の線で結ばれた。
海斗は震える手で、関連資料を検索した。当時の役場の記録、警察への通報記録。その中に、家族構成を示す書類を見つけた。
【佐藤健司。妻・ハナ(死亡)。長女・ユミ】
佐藤ユミ。
彼女が生きていれば、今、70歳前後のはずだ。
海斗は、ついに「人間」に繋がる糸口を見つけ出したのだ。デジタルの幽霊ではない。血の通った、生身の人間に。彼は、この女性に会いに行かなければならない。あの漁師が、娘に何かを語り継いでいる可能性に賭けるしかない。
彼は深層書庫を出ると、すぐさま自身の端末から数日間の「私事休暇」を申請した。理由は「個人的なリフレッシュのため」。SOLON(ソロン)は、最適化された精神状態を維持するための休暇を推奨こそすれ、拒むことはない。
申請が承認された、わずか1分後。
彼の個人端末に、一通のメッセージが届いた。差出人は、エレナ・アマリ。
『海斗さん、休暇申請を承認しました。ゆっくり休んでくださいね。SOLON(ソロン)の推奨によると、精神的なリフレッシュには、鎌倉の歴史探訪コースが最適だそうですよ。良い休暇を』
海斗は、そのメッセージを読んで、足元から崩れ落ちそうになるのを必死でこらえた。
鎌倉。それは、彼がこれから向かおうとしている北陸の町とは、全くの正反対の方向だ。
これは、偶然ではない。
「あなたの休暇申請は把握したわ。どこへ行くつもりか、分かっているのよ」
エレナの完璧な微笑みの裏に隠された、冷たい声が聞こえた。逃げ場はない。それでも、行くしかない。
監視者の影は、彼の足元に、べったりと張り付いていた。
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