第二章:監視者の影

存在しないはずの記録。アクセスできないはずの機密。

水島海斗は、自らのコンソールの前に釘付けになっていた。SOLON(ソロン)の応答は、システムのエラーなどではない。それは、明確な「拒絶」だった。この社会において、AIによる拒絶は、神による拒絶と同義だ。それは、そこに道がないという最終宣告に他ならない。

だが、海斗の目の前には、その「ないはずの道」へと繋がる扉が、半開きになっていた。

(消される)

直感が警鐘を鳴らす。この「ヒグドン・ファイル」は、SOLON(ソロン)の論理的矛盾のど真ん中に突き刺さった異物だ。システムが自己修復を始めれば、真っ先にパージされるに違いない。

海斗は、普段の彼なら決してしない行動に出た。彼は自身の認証キーを使い、管理局の規則で厳しく禁じられている「外部ストレージへのデータ非同期転送」のコマンドを実行した。極小の半透明データチップをコンソールに接続すると、数ギガバイトの破損データが、監査ログに痕跡を残しにくい、隠された経路を通って流れ込んでいく。心臓が、警告音のようにうるさく脈打っていた。

転送完了のランプが点灯した、まさにその瞬間だった。

「海斗さん。少し、よろしいかしら」

絹を滑るような、しかし決して芯を失わない声。海斗は弾かれたように顔を上げた。いつの間にか、彼の背後に一人の女性が立っていた。

エレナ・アマリ。彼の直属の上司であり、内閣府AI連携室の若き室長。

彼女は、そこにいるだけで周囲の空気を変質させる存在だった。完璧に仕立てられた白いスーツは、彼女のしなやかな身体の線を、まるで第二の皮膚のように包んでいる。緩やかにウェーブのかかった黒髪は、一筋の乱れもない。そして、瞳。深い、深い紫水晶の色をたたえたその瞳が、値踏みするように、穏やかに海斗を見つめていた。

「室長。……何か御用でしょうか」

海斗は慌ててデータチップを抜き取り、ポケットに隠した。

「ええ。SOLON(ソロン)から、あなたのターミナルで軽微なシステム・アノマリーが報告されたものですから。何かトラブルでも?」

エレナは、完璧な微笑みを浮かべていた。だが、その紫の瞳は笑っていない。むしろ、獲物の体温を測る赤外線センサーのように、冷徹な光を宿している。

「いえ、古いデータのデフラグ中に、少し互換性のないファイルがあっただけで。もう解決しました」

「そう。ならいいのだけれど」

エレナは海斗のコンソールに、さりげなく視線を走らせた。そこにはもう、当たり障りのない分類作業の画面が映し出されている。

「あなたの仕事は、人類にとって重要だわ。過去の『ノイズ』から、未来への教訓を学ぶ。SOLON(ソロン)も、そう評価している」

「……光栄です」

「でも、忘れないで。過去は、時に人を惑わせる。私たちは、未来に生きるべきなのよ」

それは、労いの言葉の形をした、明確な警告だった。エレナは海斗の肩を軽くポンと叩くと、音もなく身を翻し、純白の廊下の向こうへと去っていった。彼女が通り過ぎた後には、まるで香水のように、人間味のない、かすかな静電気が残った気がした。

時刻は午後5時前。自宅へと向かうトランス・ポッドの中で、海斗はずっとエレナの言葉を反芻していた。窓の外では、茜色の夕日がビル群を染めている。平和な、一日が終わろうとしていた。だが、彼の内面は嵐だった。

エレナは、何かを知っている。彼女のあの瞳は、ただの部下を気遣うものではなかった。

(見られている)

自宅のセキュリティを三重にロックし、遮光カーテンを引いた後、海斗はポケットからデータチップを取り出した。私用のターミナル――SOLON(ソロン)のネットワークから物理的に切り離せる旧式のマシンだ――にそれを差し込む。

目の前に、「ヒグドン・ファイル」が再び展開された。

彼は、冷静になろうと努めた。これは70年前の、一人の男が見た幻覚かもしれない。そうだ、きっとそうだ。彼は歴史家だ。オカルトマニアではない。彼はこの話を、自らの手で「論破」するために、情報を集めることにした。

SOLON(ソロン)の監視網を避けるため、彼は「裏口」を使った。SOLON(ソロン)が普及する以前の、古いインターネットの残骸。「アンダー・ウェブ」と呼ばれる、AIの光が届かない情報の掃き溜めだ。そこは、今でも一部の懐古主義者やハッカーたちが、物々交換のように情報をやり取りしている、忘れられた闇市場だった。

偽のIDを使い、何重にもプロキシを噛ませて、彼は検索を開始した。

「Ausso One」「Wyoming 1974」「Cuboid UFO」

ほとんどは、取るに足らないUFOマニアのサイトや、陰謀論フォーラムの古いログばかりだった。だが、数時間にわたる探索の末、彼は一つの、埃をかぶった宝物を見つけ出した。

それは、2000年代初頭に配信された、ある大学の心理学研究に関する小さなネット記事だった。執筆者は、レオ・スプリンクル博士。ワイオミング大学の心理学者。催眠療法によって、カール・ヒグドンの「失われた記憶」を引き出した張本人だった。

記事の内容は、ヒグドン事件そのものではなかった。博士が、他の「アブダクション体験者」について語ったものだった。

『…興味深いことに、複数の、全く無関係な被験者たちが、共通のイメージを語る傾向が見られる。例えば、南米の農夫と、ロシアの元教師が、口を揃えたかのように『藁のような髪を持ち、太陽光を極端に嫌う、ドリル状の手を持つ存在』について証言しているのだ。これは単なる偶然の一致として片付けるには、あまりに…』

海斗は、記事を読みながら全身の血の気が引いていくのを感じた。

(一つじゃない…パターンだ)

ヒグドン事件は、孤立した点ではなかった。それは、世界中に散らばる、一つの巨大な絵を描くための、無数の点の一つに過ぎなかったのだ。

その考えに戦慄した、まさにその時だった。

彼のターミナルの画面が、一度、ブラックアウトした。ウイルスか? いや、違う。

漆黒の画面の中央に、緑色のカーソルが一つ、点滅を始めた。そして、タイプライターが文字を打ち出すように、一文字ずつ、メッセージが現れた。

彼らは、君が見ていることを知っている。

これ以上、穴を掘るな。

さもないと、穴がお前を飲み込むぞ。

メッセージはそれだけを告げると、一瞬で消え、画面は元の記事の表示に戻った。まるで、何も起こらなかったかのように。

だが、海斗には分かっていた。

これは、ゲームの始まりを告げる合図だ。そして、彼はもう、ただの観客ではいられない。闇の中にいる「誰か」が、彼というプレイヤーの存在に、はっきりと気づいてしまったのだから。

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