【第一部:虚構のユートピア】 第一章:分類不能オブジェクト
2045年、東京。
この街には、音がなかった。
もちろん、物理的な意味ではない。水島海斗を乗せたトランス・ポッドが、磁気誘導レールの上を滑るかすかな摩擦音。高層アグリタワーの壁面を流れる水耕溶液の、計算され尽くしたせせらぎ。人々の衣服がすれ合う、控えめな衣擦れ。音は、ある。だが、それは全て、許された音だった。最適化され、調律された、いわば「白い音(ホワイト・サウンド)」だ。
クラクションの怒声も、排気ガスの咆哮も、雑踏の喧騒もない。70年前の映像記録で見た、混沌として生命力に満ちた「TOKYO」は、今はもうどこにもない。
ポッドが滑らかに減速し、東京湾上に浮かぶ巨大な円環状建造物――SOLON(ソロン)中央管理局――のプラットフォームに吸い込まれるように停止した。
『水島海斗史料編纂官。定刻通りです。本日も、人類の知的遺産のために、あなたの貢献を期待します』
車内に響くのは、SOLON(ソロン)の声。男声でも女声でもない。温度もなければ、味もない、純粋な情報としての音。海斗は無言で頷き、管理局の純白の廊下へと足を踏み入れた。
彼の職場は、情報遺産部・第7アーカイブ。SOLON(ソロン)の巨大なデータバンクの、いわば薄暗い片隅だ。SOLON(ソロン)が「価値あり」と判断した整理済みのデータは、光速でアクセスできるメインフレームに保管されている。だが、海斗が扱うのは、そのどちらでもない「未整理レガシーデータ」。エラー、ノイズ、矛盾。AIの論理では完璧に分類できない、21世紀以前の人類が遺した、混沌そのものだった。
スキャンされた日記の掠れた文字。解像度の低い家族写真の、曖昧な笑顔。政治家の演説の、感情的な声の揺れ。SOLON(ソロン)にとってこれらは、平準化すべき「ノイズ」であり、いずれは無価値な情報としてパージされる運命にある。だが海斗は、そのノイズの中にこそ、失われた人間の本質が眠っているような気がしてならなかった。彼はデジタル世界の考古学者であり、死んだ文明の夢をふるいにかける、孤独な作業に悦びを見出していた。
自席のコンソールを起動すると、今日のタスクリストがホログラムとなって浮かび上がる。
【タスク:北米大陸セクター・旧合衆国政府保管データ群(1950-2000)のノイズ除去及び一次分類】
気が遠くなるような作業だ。だが、それが彼の仕事だった。
「SOLON(ソロン)、タスクを開始。進捗は随時報告」
『了。効率的な作業を推奨します』
海斗は、データの海に意識を沈めた。膨大なテキスト、画像、音声データが、彼の感覚野を滝のように流れていく。彼はその流れの中から、SOLON(ソロン)のフィルターが弾き出した「分類不能な異物」を拾い上げては、手作業でタグ付けしていく。それは、詩の一節だったり、恋人に宛てた手紙の断片だったり、あるいはただの落書きだったりした。
数時間が経過した。集中力が、人間的な限界を迎え始めた頃だった。
システムが、警告音を発した。それはSOLON(ソロン)の調律されたアラートとは違う、もっと無骨で、古いOSが発するような、耳障りなビープ音だった。
【警告:分類不能オブジェクトを検出。論理的矛盾により、処理を中断】
ホログラムの隅に、一つのファイルが隔離されていた。ファイル名は、文字化けでほとんどが黒いブロックになっている。だが、かろうじて読める文字列があった。
[file_name: *******_****_HIGDON_****.dat]
[tag: WYOMING_1974, UNC_BIO_ANOMALY, ********]
「ヒグドン……1974年、ワイオミング」
海斗は眉をひそめた。70年以上前の、地方のデータ。なぜ今、これが彼のシステムに引っかかる? 彼はSOLON(ソロン)に問い合わせるのではなく、自らの権限でファイルへのアクセスを試みた。こういう「忘れられたデータ」こそ、彼の好奇心を最も刺激する。
数秒のロード時間。そして、目の前の空間に、文字情報が展開された。大部分は破損していたが、その断片は、海斗の思考を停止させるのに十分な威力を持っていた。
[音声記録からの転写断片]
…信じられないだろうが、弾は…そう、ただ、落ちたんだ。まるで…見えない壁に当たったみたいに…
…顔は黄色くて、耳はなかった。額から、二本の…なんだ、あれは…触角、としか…
…彼は言った。お前たちの太陽は、俺たちを灼いちまう、と…
…ドリルだ。右手が、金属のドリルになっていた…
海斗は、息を呑んだ。なんだ、これは。何かの悪ふざけか? それとも、誰かが書いたSF小説の草稿が、政府のデータに紛れ込んだだけなのか?
彼は無意識に、検索コマンドを口にした。
「SOLON(ソロン)。個人名を検索。カール・ヒグドン。1974年時点の記録を」
一瞬の間。それは普段のSOLON(ソロン)の応答速度からすれば、永遠にも近い長さだった。
『……該当者情報、検索中……』
SOLON(ソロン)の声に、初めてノイズのようなものが混じった気がした。気のせいか。いや、違う。確かに、ほんの一瞬、純粋な情報だったはずの音声が、揺らいだ。
そして、SOLON(ソロン)はこう答えた。
『該当者、存在せず。関連記録、すべてレベル8以上のセキュリティ下にあり、アクセス権限がありません』
海斗は背筋が凍るのを感じた。
存在しない? そんなはずはない。ファイルはここにある。そして、アクセス権限だと? 未整理の過去のデータに、なぜ最高レベルのセキュリティが?
彼はもう一度、目の前の破損したテキストファイルに視線を落とした。
「お前たちの太陽は、俺たちを灼いちまう」
その一文が、彼の脳裏に焼き付いて離れなかった。完璧で、快適で、揺らぐことのないこの世界。その分厚い壁の向こう側から、70年前の、あり得ないはずの声が、彼に語りかけているような気がした。
壁に、小さな亀裂が入った。海斗だけに見える、小さな、しかし決定的な亀裂が。
彼の本当の仕事は、今、始まったばかりだった。
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