チート能力で異世界転移して3人のヒロインに囲まれてるけどクセ強すぎてもう無理かもしれない

@elicia

短編



 生前、暴走トラックに轢かれ、死亡した青年。




 だが、それは神の調整ミスによってもたらされた、予定外の事故だった。


 もっとも、死者をそのまま蘇らせるわけにもいかず、神はせめてもの償いとして、彼の魂を別の次元へと送り出すことにした。




(すまんな。少しばかり、あんたの体を丈夫にしておいたよ)




 別れ際、そんな言葉が意識の底に微かに響いた。




 彼が目を覚ましたのは、見知らぬ草原の上だった。


 一面に風が吹き抜ける丘陵地帯。

 周囲には人影もなく、ただ草が風に揺れているだけだった。




 ここはアルセール大陸。

 ちょうど港町ポロットからサンセット街へと向かう中間地点。




「ここは……どこ……」




 静かに、誰に聞かせるでもなく彼は呟いた。




 それから、しばらくの期間が経った。




 彼は冒険者ギルドに身を置き、日々のクエストをこなす中で、少しずつこの世界の仕組みを学んでいった。


 与えられたチート能力を駆使し、次々と敵を倒していくことで、ギルド内でも次第に名が知られるようになった。




 さらに、それからまたしばらくの時間が過ぎていった。



 どうやら、これは自分が生前に見ていた「小説家になろう」によくある異世界ファンタジーのような世界らしい。




 ——と思っていたのだが、全然違っていた。




 街を歩けば、舗装された道路の脇に車が停まり、街灯の下で人々がスマホをいじっている。




 電線が空を走り、コンビニの明かりが深夜まで煌々と灯る。


 だが一方で、冒険者ギルドの前では鎧に身を包んだ男たちが剣の手入れをしており、通りの端には魔法書専門の古書店まであった。




 どうにも捻れた発展を遂げている世界らしい。


 しかも寿司も醤油もラーメンもある。




(絶対……地球を知ってる奴がいる……)




 青年は確信した。


 屋台で食べた醤油ラーメンの味は妙にリアルで、スープには魚介の出汁すら感じられた。

 尋ねてみたが、店主は「昔からある味だよ」と曖昧に笑うばかり。


 その後も調べてみたが、どうやら異文化流入の震源地には具体的な人物名は残されておらず、すべてが断片的な噂にとどまっていた。


 どうも、とある金持ちが色んな投資をしまくった結果、そういったビジネスが発展したらしい。


 飲食、生活用品、果てはカプセルトイまで、どこかで見たような商品が流通しており、いずれも高級でも伝統品でもなく、「妙に実用的で、やけに手頃」なものばかりだった。




 それはさておき——。






 異世界ハーレム!






 やっぱり青年の憧れ。


 小説家になろうでも「異世界チートハーレム」ばっかり見て、枕元で主人公と自分を重ねる日々だった。


 剣と魔法と美少女。


 無双して、モテて、なんやかんやで国を救って、最後は嫁とイチャイチャ。そういうテンプレに、彼は深く、静かに、毒されていた。




 さて、そんなある時。




 青年——ルクスが討伐依頼ばっかり受けたために、ギルドに張り出される依頼は建設工事の人夫や水道管更新工事の誘導員とか、日雇みたいな仕事しか残らなかった。


 受付嬢から「もう少し依頼の種類に幅を持たせたほうが……」とやんわり言われたが、時すでに遅く、掲示板は土方系の紙で埋め尽くされていた。




 ルクスは次なる冒険を目指し、他の冒険者の恨めしい視線から逃げるように北へ上がった。




 ルクレシア北部のベロン街。

 鉱山と狩猟で栄える寒冷地帯で、旅人にはあまり馴染みのない場所だ。


 その北には「竜の巣」と呼ばれる山があり、そこではドラゴンハンターたちが日夜シノギを削っているらしい。


 ギルドでも、たまに話題になる。


「ドラゴンの鱗が一枚10万Gで売れた」とか、「氷竜の牙を使ったナイフは魔法耐性が上がる」とか。

 半分が眉唾で、もう半分が死人の出た依頼の報告だ。




 その道中——。






 実はひょんなとこから紆余曲折あって、なんと女性が3人も仲間になった。






 まさかハーレムが現実に!?

 疑う余地もなく、それは事実だった。


 そして現在、ルクスは3人の仲間を引き連れてベロン街を目指して北上中。




 ——ザッザッザッザ




 一人は魔術師。


 彼女の魔法は多彩で、遠距離・中距離からの攻撃やバフ掛けまで、ほとんどの局面に対応できる。

 冷静沈着で表情の変化が乏しいが、時折妙なこだわりを見せる癖があった。




 もう一人はシスター。


 フィレット教国出身の彼女は、敬虔な信仰のもとに神聖術を扱い、アンデッドや闇の攻撃からパーティーを守る支援型。




 そして3人目はバーサーカー。


 身の丈ほどある大剣を片手で振り回す怪力の持ち主で、俊敏な動きと破壊力を併せ持ち、前衛での制圧力は抜群。性格は無口だが、時折ニヤニヤと笑っていることが多く、その意味は誰にもわからない。




 ルクスは頼れる仲間と共に、黙々と歩き続けていた。




 そして休憩。




 ——ぼっ




 野営地に焚き火の炎が灯り、パチパチと静かな音が辺りに広がる。

 それを囲む形で、パーティーの面々が各々の姿勢で座っていた。


 女性が3人もいるせいなのか、ルクスは落ち着かず、そわそわしている。




「肉……焼けないね……」




 沈黙を埋めるように、ルクスはぽつりと呟いた。




 ——ぽちぽち




 向かいで座っているシスターは、ずっとスマホをいじっている。

 指先が画面を滑る音だけが、焚き火の音に混ざって聞こえる。


 時々「よっしゃ」とか「うわぁ……」とか小声で漏らしているのが、余計に謎を深めていた。




 ——ニヤニヤぁ〜




 バーサーカーはずっとルクスのほうを見て、無言でニヤニヤしていた。

 口元から覗く犬歯が、焚き火の光を受けて怪しく光っている。




「……」




 ——ジュウウウゥ……




 鉄板の上で脂が跳ね、肉の焼ける音が空腹を刺激する。




 ——コポコポ……




 魔術師が静かに、携帯用のコップに酒を注いでいた。

 その所作は妙に丁寧で、どこか儀式めいてさえ見えた。




「はい」


「……あ、ありがとう……」




 ルクスは戸惑いつつも手を伸ばす。

 だがこんな空気では、自分だけ飲むのも気が引ける。


 そんな視線を感じ取ったのか、魔術師はすっと身を寄せ、耳元でささやいた。




「大丈夫」


「……」




「コップは水でゆすいだから」


「あ、ああ……」




「コップにゴミが入ってると、汚いものね」


「そうだね……」




「肉はまだ時間がかかるわ」


「……」




「焼けてない肉は食べられないから」


「うん……」




「生焼けの肉を食べると、食中毒になるの」


「知ってるよ……」




「食中毒になると、毎日下痢をして汚いものね」


「気をつけるよ……」




「ルクスさん」


 スマホをずっと見ていたシスターがおもむろに呼びかけた。




「うん?」


「ここをもう少し歩くと、小さな街に着きます」




「そうなのか」


「お願いがあるのですが……」




 シスターは神妙な顔をしている。

 焚き火の光に照らされたその表情は、どこか祈る者のようでもあり、何かを企む者のようでもあった。




「私はシスター。迷える子羊に神の導きを示す者」


「……」




「次の街でも、飢える人々に施しをしなければなりません」


「そうか……」




「パンを買うためのお金を、貸して欲しいんです……」


「……どれくらい?」




「5万Gほどあれば十分です」


「そうか」




 彼は財布から5万Gを取り出し、シスターに渡した。

 迷いはなかった。施しなら仕方がない、と思った。






「ありがとうございます。これでパチス——じゃなくて、施しができます。またいつか倍にして——じゃなくて……返します」






「気にしなくていいよ」




 ——パチパチ




 肉はもう少しで焼けそうだ。




「ここからしばらく歩くと……森がある」




 いきなりバーサーカーが口を開いた。

 その声は低く、焚き火の音にかき消されそうなほど静かだったが、妙に耳に残る響きをしていた。




「……?」




 唐突な発言にルクスは思わず顔を上げた。




「森には魔獣がよく出るらしい」


「そうか……じゃあ森を避けて——」




「だから森を通って行こうと思う」


「……」




 それを言うなら普通は逆だろう、という言葉が喉元まで出かけて、ルクスは飲み込んだ。


 やはりこのバーサーカーも、どこか常識の通じない雰囲気がある。

 言葉数が少ないぶん、何を考えているのか読みにくい。


 理由が……意味不明だ。




「ところで……」




 焚き火の明かりに照らされたバーサーカーの横顔を見ながら、ルクスは前から気になっていたことを口にする。






「いつも思うんだけど……首の後ろにチャック? みたいなのがあるじ——」






 言い終わらないうちに、バーサーカーが反応した。

 無表情のまま首だけをゆっくりとこちらに向け、淡々と答える。




「これはボディピアス。なんでもないわね」


「どうしてそんなところに?」




「おしゃれでしょ? ただのオシャレよ。だってこんなところにチャックのボディピアスなんかしてる人、いないもの」




「そりゃ……そうだけど……」




 焚き火の炎がチャックの金具に反射し、一瞬だけギラリと光った。

 人工物の存在感が、どこか現実味を削ぎ落とす。




 ——ジュウウウうぅ




 鉄板の上で、肉の脂が音を立てて弾けた。




 ——プツ……




 小さな火の粉が弾け、草の上で消える。




「肉が焼けたみたいね」




 魔術師が静かに呟いた。

 その目は焚き火ではなく、ナイフの切っ先に向けられていた。

 彼女は手際よく鶏肉を小さな塊に切り分け、各自の皿に配っていく。




「大丈夫よ。このナイフで生肉は切ってないから」


「……」




「生肉を切ったナイフで食材を切ると、汚いばい菌が入って食中毒になるわ」


「ああ……そうだな……」




 ルクスは一口、焼きたての肉を口に運ぶ。

 程よく火が通っていて、表面はパリッと、内側はじゅわっとジューシーだった。

 焚き火の煙が鼻に抜け、ちょっとしたキャンプ気分を演出する。


 一同は静かに、しかしそれぞれのやり方で食事を始めた。




 だが、バーサーカーだけは皿を持ったまま、無言で立ち上がった。




 ——ザッザッザッザ……




 草を踏む音が静寂を裂く。

 彼女は誰にも言葉をかけず、そのまま川の方角へ歩いていった。

 焚き火の明かりから外れた後ろ姿は、ぼんやりと闇に溶けていく。




 少し離れたところにある岩の影に、すっと身を沈める。


 そこが彼女の「食事の場所」らしい。




「……」




 ルクスは黙ったまま、その様子を見つめていた。




 彼女は食事の時はいつもそうする。




 ギルドでも、パーティーで外食する時でも、自分だけ食料を持って個室や倉庫の奥にこもっていた。

 理由を尋ねても「なんでもないわ」とだけ返され、会話はいつもそこで終わる。




「みんなと一緒に食べたくないのかな……」




 ぽつりと漏らすルクスに、隣の魔術師も、向かいのシスターも特に反応を返さない。




 あえて触れない、という空気がそこにはあった。

 風が草を揺らし、焚き火が小さく揺れる。

 沈黙だけが、ゆっくりと夜の帳を降ろしていった。




 翌日。また一同は歩き始めた。




 朝の空気はひんやりと澄んでいて、森の奥から鳥の鳴き声がかすかに聞こえてくる。

 草原を渡る風が冷たく、肌を撫でるたびに眠気が薄れていくようだった。


 心なしか、シスターの機嫌が良さそうだ。




「〜♪」




 鼻歌を口ずさみながらスマホを片手に歩いている。

 歩幅も軽く、時折ぴょんと足を跳ねさせるような仕草すら見える。




「なんか機嫌いいね」




 ルクスがそう言うと、シスターは顔を輝かせて振り向いた。




「次の街でかせg——じゃなくて……施しがいっぱいできるもの」




「やっぱりそれってフィレット教の教義にあるの」


「そうよ。聖職者はみんな施しをしないといけないの」


「大変だね」




 一見すると清らかな使命感に満ちた受け答えだったが、語尾にどこか“含み”を感じさせるところがシスターらしい。




 ——ザッザッザッザ




 足音が乾いた地面に規則的に刻まれていく。

 背後には森、前方には草の波打つ丘。

 見渡す限りの一本道を、4人の影が並んで進んでいく。




「あぁ〜足痛いし」




 シスターが溜息交じりに不満をこぼした。

 つま先をかばうような歩き方で、足取りも明らかに重い。




「歩きすぎると靴擦れを起こすわ」




 魔術師が、あまり感情のこもらない声で囁く。




「いやもう靴擦れしまくりだわ」




「靴擦れすると、傷口から汗とか汚いものが入って、足が腫れるの」


「……」




「膿が出て、靴が汚れて、その悪循環だわ」


「……」




 どんどん詳細になっていく描写に、ルクスは反応に困って視線をそらした。

 想像力を無駄に刺激する言い回しは、相変わらず容赦がない。




「本当ならサンセットからバスに乗ればその日についたけど、仕方ないね」




 唐突に投げかけられた言葉に、3人の視線がルクスに突き刺さる。




 無言。

 だが、その無言こそが強烈だった。


 ルクスは「異世界気分を味わいたいから」という理由で、徒歩での移動を提案したのだ。

 その結果が、今のこの長旅である。




 ——ブウウウウゥン




 背後からエンジン音が近づいてきた。


 舗装された脇道を、一台のバスが追い抜いていく。

 ベロン街行きの路線バスだった。


 カーテンの隙間から見えた乗客たちは、冷房の効いた車内でアイスを食べたり、寝たり、スマホをいじったり、各々の快適な時間を過ごしていた。


 誰も、歩いて旅している一行のことなど見ていない。


 その静かな無視が、さらに辛かった。




 森に入った。


 手前の看板には、赤く大きな文字でこう書かれていた。




【ベロン街に行かれる方は迂回すること!危険!】




 木製の板に黒いペンキで書かれた注意書きは、すでに何度も風雨に晒されており、角は欠け、文字も一部にじんでいた。

 誰が立てたのかは不明だが、周囲には明らかに“それなりの事情がある”空気が漂っている。


 だが——。




「森を通った方が近い」




 バーサーカーのその一言で、あっさりと方針は決まった。

 ルクスが「でも危ないって……」と言いかけたが、返ってきたのは「危ないからこそ行くのよ」という謎理論。


 誰もそれ以上反論できず、一同は結局そのまま森に踏み入った。


 森の中は薄暗く、湿り気を帯びた空気が肌に張り付くようだった。

 木々の隙間から光が差し込むものの、根元付近はほとんど視界が効かず、遠くで不穏な鳴き声や羽音が聞こえていた。




 しばらく歩くと、突然の襲撃。




 ゴブリンが木陰から飛び出し、エビルモンキーが木の上から石を投げ、地を這うリザードが足元から襲いかかってきた。


 だが——。




 魔術師の冷静な氷魔法が前衛を凍らせ、シスターの防御結界が咄嗟に飛び石を防ぎ、

 そしてバーサーカーの巨大な戦斧が、斜めからリザードの頭を叩き割った。




 ——ニヤニヤぁ〜




 バーサーカーはものすごいニヤけ顔で、次々と敵を真っ二つにしていく。

 焚き火の光で見せたあの犬歯が、今は返り血を受けて獣のようにギラついていた。




 ——ズルズル……




 ——ズルズル……




 戦闘が終わると、彼女は無言のまま、敵の死体を引きずりはじめた。

 ぐったりとした魔物の死体を一体ずつ、岩の下や太い木の根元へと押し込み、整然と積み上げていく。




「なんでわざわざ?」




 ルクスが尋ねると、バーサーカーは獰猛な笑みを隠そうともせずに振り返った。




「邪魔じゃん。後から来る人が躓くかもしれないでしょ」


「そんな大きい死体じゃあ躓かないよ」


「あぁ、そうだったね。でも邪魔でしょ」




 口調は軽いが、どこか真剣にも聞こえた。

 それが余計にルクスを困惑させた。


 隣で魔術師が呟く。




「死体が腐ると、悪い空気を運んでくるわね」


「そ、そうだけど……」




「ハエが集って、そのハエが食糧に止まったりすると汚いもの」


「……」




 ルクスが言葉に詰まっていると、魔術師がふと彼の顔に目を留めた。




「あ、血がついてる」




 言うが早いか、彼女は手に持っていた布切れを取り出し、ルクスの頬を静かに拭き始めた。




 ——スリスリ




「あぁ、気がつかなかった。ありがとう」


「血が乾くと、固まって拭きにくいものね」




 ——スリスリ……




「……もう取れたでしょ? もういいよ」


「……」




 ——スリスリスリスリ……




 なぜか手が止まらない。

 その表情は相変わらず無表情で、何を考えているのか分からない。




 その横でシスターは、ずっとスマホの画面を睨みつけている。




「……いけ!……させ!」




 画面に向かって何かを呟いているが、ルクスには内容がまるで分からない。


 ゲームなのか、配信なのか、あるいは祈祷なのか。

 本人の表情が真剣すぎて、かえって余計なツッコミもできない。




 バーサーカーはというと、戦闘が終わったというのに、ずっと首筋のチャックをチラチラ触っていた。




 かと思えば、ふと木の幹に目を向けてじっと見つめたり、斧の切っ先を地面に突き刺して、その音だけを楽しんでいるようにも見える。


 まったく落ち着きのない森の一行だった。




 途中で休憩。




 森の中の小さな空き地に出たところで、一同は丸太に腰掛けて一息ついていた。

 木漏れ日がまだらに地面を照らし、どこからか風が吹き抜けていく。


 魔術師は黙って水筒の水を飲み、バーサーカーは戦斧の刃を布で拭いている。




 そんな中、シスターがちらちらとルクスの顔を見ていた。

 目が合うと、少しだけ距離を詰めて、真剣な表情で声をかけてきた。




「昨日……5万Gくれ——貸してくれたじゃん?」


「うん? どうしたの?」




「次の街のこと調べたら、思ったより人口が多いの」


「……」




「きっと飢えに苦しむ人も多いわ」


「そう……かな?」




「あと2万Gでいいから、ちょっと貸してほしいの。それでシチューを作ってあげたい」




 目は真面目そのものだが、どこか演技がかって見えるのはルクスの気のせいだろうか。




「シスターって大変なんだな」




 ルクスは苦笑いを浮かべながら、懐から財布を取り出そうとする。

 しかし——




「PayPayで欲しいの」


「なんで?」




「最近は強盗対策で現金を置かない店が多いの。だから子供達にあげるパンもPayPayで払わなきゃ」


「なんか……異世界らしくないんだよなぁ……」




 ため息混じりにスマホを取り出し、画面をタップする。

 電波はなぜか通じていて、スマホは当然のように決済アプリを起動する。




 ——ペイペイ♪




 電子音が森の静けさにやけに大きく響いた。




「ありがとう。これでカジ……シチューの野菜を買うことができるわ。子供達が喜ぶわね」


「そうだな」




 隣でバーサーカーが、無言で首筋のチャックを撫でながらニヤリと笑った。

 その様子が意味深すぎて、ルクスは見なかったことにした。




「ねえ、どれくらい休憩するの?」




 バーサーカーが聞いてきた。

 足を組んだまま、右膝を小刻みに上下させている。

 それはもう“貧乏ゆすり”というより、地面を削り出しそうな勢いだった。




「あと1時間くらい休もうと思う。シスターの足も休めなきゃ」




 ルクスはそう答えながら、傍らで靴を脱いでいるシスターに目をやった。

 彼女の足首には複数の絆創膏が貼られており、手には冷却スプレーの缶が握られていた。

 顔には疲労の色が浮かんでいるが、スマホの画面は決して離さない。




「1時間ね。じゃあすぐには行かないよね」




 バーサーカーが妙に念を押してくる。




「そうだけど?」


「じゃあすぐ戻ってくる」




 立ち上がった彼女は、すぐさま背を向け、無言で来た道を戻り始めた。

 一歩ごとに草を踏む音が遠ざかっていく。




「何しにいくの!?」




 ルクスが慌てて声を上げる。


 バーサーカーは振り返らずに、やや大きめの声で答えた。




「ちょっと落とし物!」


「探すの手伝おうか!?」


「いやいい! 大した物じゃないから! なかったら諦める!」




 ——ザッザッザッザ……




 彼女の足音だけが森の中に吸い込まれていった。




 しばらくして、バーサーカーは無言で戻ってきた。




 表情は変わらず、首筋のチャックをさりげなく撫でながら、再び一行とともに歩き出す。


 途中、数度の魔物の襲撃があったが、どれも大したものではなかった。


 ゴブリン、スライム、牙の生えたリスのような魔物。

 すべてルクスのチート能力の前では、虫けら同然だった。


 魔術師の魔法は冴え、シスターの結界は堅牢で、バーサーカーの斧は躊躇なく骨を断ち、森の進行を妨げるものは何一つなかった。


 やがて空が朱に染まり始めた頃、木々の隙間からわずかな灯りが見えてきた。

 森を抜けたのだ。




「次の街ね」




 魔術師が呟く。

 夕焼けに染まる空の下、ぽつぽつと灯る街灯と、遠くに見える小さな民家の屋根。

 サンセット街とベロン街の中間にある、名もなき小さな街だった。




「〜♪」




 シスターはまた鼻歌を口ずさみ、足取りも軽くなっていた。




「街に着いたら宿を探して食事だな」




 ルクスがそう提案すると、バーサーカーがぽつりと呟く。




「私はご飯いらないわ」




 顔をそむけたまま、視線はどこにも向いていない。

 ただ、首筋のチャックを指先で触れたり離したりしている。




「腹減ってないの? 一日中歩いたのに?」


「さっき食べ——あ、いや、食欲ないもの」




 言い直した言葉の不自然さに、ルクスは少しだけ首を傾げたが、それ以上は何も聞かなかった。




「そうなんだ」




 そしてまた、誰も突っ込まないまま、日が暮れていった。






 その後、話は大きく飛ぶが、ベロン街に到着した一同はギルドで提示されたドラゴン討伐クエストに参加することとなった。






 この地域の北方にそびえる「竜の巣」では、かつてから凶暴な個体が目撃されており、熟練のドラゴンハンターたちが日々命を賭して戦っている。


 ルクスたちもまた、他のハンターと同じく竜狩りに身を投じた。


 だが——。




 突如として現れた、イレギュラーな存在。

 それは漆黒の鱗をまとい、瘴気を撒き散らす異形の竜——ダークドラゴン。




 街の鐘がけたたましく鳴り響き、広場では人々の悲鳴が交差する。

 多くのベテランハンターたちがその異様な雰囲気を前にして討伐を断念し、次々と撤退していった。




 その中で、ルクスたちだけが、名乗りを上げた。




 ダークドラゴンは、凄まじかった。


 空中を自在に舞いながら、闇を凝縮したような暗黒ブレスを吐き出し、

 その一撃が地に着弾するたびに、大地が裂け、黒煙と破片が舞い上がる。

 巨体を活かした突進と尾の薙ぎ払いは、一瞬で城壁の一部を瓦礫に変えるほどだった。




 正直なところ、ルクス以外の三人はその猛攻を防ぐので精一杯だった。




 防御結界は瞬く間にひび割れ、魔法の詠唱すらままならない。

 バーサーカーは岩陰に身を隠しながら、かろうじて反撃の隙をうかがっていた。




「無理だったら逃げろ! 俺が戦う!」




 ルクスが叫ぶ。




 そして腰から引き抜いたのは、氷の紋章が浮かぶ青銀の剣——アイスソード。




 かつて深層ダンジョンで手に入れた、超高位のエンチャント武器。

 チート能力の彼がそれを振るえば、たしかに無敵に等しかった。




 ——ニヤニヤぁ〜




 岩場の陰で、バーサーカーが笑っている。

 口元を吊り上げながら、ひたすらチャックを触り続けている。

 何がそんなに楽しいのか、誰にも分からない。




「バーサーカー!逃げていいから!俺がやる!」




「ダメよ! 見届けなきゃ! あなたがしぬ……勝つまでね! それに仲間でしょ! 置いて行けないわ!」




 彼女は物陰に身を潜めながら、片膝を立て、そこでも貧乏ゆすりを続けていた。

 斧は既に手元にあり、チャックの金具をカリカリと撫でながら、異様なテンションで叫んでいる。




 反対側の岩の陰、シスターも顔を出す。




「苦難の道を進む者を見捨ててはいけません! あなたが死んだら、誰が稼ぐ……ダークドラゴンを倒すんですか!」




 やや言葉に混じる本音が怖い。


 そして魔術師も、身を伏せたまま声を上げた。




「あなたなら大丈夫!気をつけて!竜の爪は汚いわ!だから引っ掻かれるとばい菌が入って腕が腐り落ちるの! そしたら汚いのが身体中に入って死んじゃうわ!」




(そこ!? なんか他にもっとあるだろ!)




 と叫びたかったが、ルクスは言葉を飲み込み、剣を握り直す。


 空には、闇の竜が旋回していた。その眼は確かに、彼らを狙っている。






 その後、ルクスのチート能力でなんとかダークドラゴンにトドメを刺した。






 アイスソードを振り抜いた瞬間、竜の咆哮が空を裂き、巨大な身体が地に墜ちていった。

 その衝撃とともに、瘴気のような黒い霧が風に流れ、空が再び夕陽の色に染まりはじめる。

 静寂の中でルクスは剣をおさめ、燃えるような吐息を吐いた。




 街は歓喜に包まれた。




 英雄として讃えられ、討伐報酬の他にダークドラゴンの素材を入手。

 黒曜の鱗、漆黒の角、核の魔石。いずれも高値で取引される希少品ばかりだった。




 ルクスは素材の一部で新たな武器を鍛え、残りは売却して大きな資金を手にした。


 ギルドランクも跳ね上がり、登録から1年もしないうちに中堅クラスへと昇格。

 一介の若者が、冒険者社会で急速に頭角を現した瞬間だった。




 ルクスの噂は、瞬く間に広がっていった。




 そして、野心ある者たちは動き出す。

 貴族、大商人、軍関係者……彼を手中に収めようと、水面下で駆け引きが始まった。


 その日も、一件の招待を受けて、とある大商会の屋敷を訪れていた。




「——というわけでルクス様には是非とも当商会の私兵部隊に入っていただけないかと」




 広い応接間にて、金襴のソファに深く腰かけた幹部が穏やかに語りかける。

 テーブルには銀製の茶器が並び、香り高い紅茶が揃っていた。




「……」




 目の前に置かれたティーカップ。中には澄んだ紅の液体。高級茶葉の香りが漂っている。




 ——ズズううぅ




 遠慮することもなく、その紅茶を音を立てて飲み干すシスター。

 手元のスマホは見たままで、片手でカップを操作するあたり器用だった。


 魔術師は紅茶に手をつけず、静かにカップを持ったまま水面をじっと睨んでいる。

 まるで毒見でもしているかのように、動かない。


 バーサーカーはというと、部屋の隅の窓辺に立ち、

 屋敷の庭に立っている警備兵をまばたきもせずに眺め続けていた。




「すみませんが僕にはそのような予定はなくて……」




 ルクスが丁寧に、しかしはっきりと断る。




「ほう……。ではルクス様がご活躍される目的というのは……?」


「いえ、ただ純粋にこの世界を見て回りたいだけなんです」




 ——ガタ




 ルクスは立ち上がり、出された紅茶に一口もつけることなく、お屋敷を後にした。


 帰り道、足音だけが舗装石に響いている中で、シスターがぼそりと漏らした。




「商会の私兵部隊って、隊長クラスだと年収800万Gですって」




「……あんまりいい感じはしなかったよ。あれじゃあ汚れ仕事ばかりさせられて、飼い殺しってことも考えられる」




 ルクスは真顔で言った。




「さっきの紅茶……埃が浮いてたわ。多分洗ってなかったの」




 魔術師が平坦な口調で続ける。




「……」




「埃が口に入ると気持ち悪いものね。きっと消化されないで、そのまま埃が出てくるわ」


「そ、そうだな……」




 返す言葉に困ったまま、ルクスは歩を進める。

 チャックを触りながら無言で後をついてくるバーサーカーが、やけに静かだった。




 冒険の拠点を定めるために、ルクスはサンセット街に戻った。




 港町ポロットやベロン街とは違い、この街は商業と娯楽に溢れた大陸随一の大都市。

 人と物が絶え間なく行き交い、冒険者たちの溜まり場としても名高い場所だ。

 装備の補充、情報収集、依頼の受注、すべてにおいて利便性が高い。




 だがその便利さとは裏腹に、都市ならではの影もまた深かった。




 サンセット滞在から数日後。


 エージェントを通じて、とある貴族らしき人物から面会の申し出があった。

 名は伏せられていたが、手紙の文面は丁寧で、ある種の“圧”が滲み出ていた。


 ルクスは一度それを丁重に断った。

 特定の勢力に組する気はなかったし、無用な干渉も避けたかった。


 だが——。




 その日から、何かがおかしくなった。




 道を歩けば、背後にわずかな気配。

 目線を感じて振り向いても、そこにはただの通行人や商人がいるだけ。

 だが、ほんの一瞬前までこちらを凝視していたような気配がある。




(……どうもまずいな)




 ルクスは直感的に察していた。


 これは単なるチンピラや闇市の監視ではない。

 尾行や密偵に長けた、訓練を受けた“何者か”によるプロの仕事だ。


 襲いかかってくるわけでもなく、接触してくるわけでもない。

 ただ、距離を保ちながら四六時中どこかで見られている。


 気味が悪い。




 それだけではない。


 冒険者ギルドに行けば、受付嬢がこう言う。




「ルクスさん、先日お会いした貴族の方から伝言を預かっております。“また日を改めてご縁があれば”と……」




 行きつけの武器屋では店主がぼそりと漏らした。




「こないだの青年、あんたのこと聞いてたよ。“氷の剣を持ったチート冒険者”ってな。ま、誰とは言わんがな」




 魔道具店でも。




「この護符、あなたの好みに合いそうだから……って、例の人が言ってたわ。ええ、あの“誰か”が」




 買い物の履歴。

 生活リズム。

 滞在している宿。

 通っている路地裏の喫茶店。

 訓練場所、納品スケジュール、食事の時間帯——




 すべてが、既に“調べ上げられている”という雰囲気。




 監視の目は、もはや周囲の日常そのものに溶け込んでいた。

 誰が味方で、誰が仕組まれているのか、判断すらできなくなるほどに。




(これは……完全に囲まれてるな)




 ルクスは無意識にアイスソードの柄に触れながら、空を見上げた。

 青空は広がっていたが、その視線の先にも“誰か”がいる気がしてならなかった。




 このままでは埒が開かない。

 そう判断したルクスは、ついに行動に出た。




 状況を打開するには、自ら動き、明確な意思を突きつけるしかない。

 追手を差し向けてくるなら、チート能力で一網打尽にしてやる。


 そう決意し、ルクスは三人の仲間——魔術師、シスター、バーサーカーを引き連れ、件の貴族の屋敷へと向かった。




 アポなしだった。

 それでも門前に立った瞬間、まるで待っていたかのように使用人たちが整列を始めた。




 ——ガラァ




 重厚な鋳鉄の門が静かに開かれる。

 油の差された蝶番は音もなく滑らかに動き、向こう側には赤絨毯がまっすぐ伸びていた。




「お待ちしておりました。ルクス御一行様!」




「お待ちしておりました」

「お待ちしておりました」

「お待ちしておりました」




 左右に並ぶ使用人たちが、一糸乱れぬ動作で深く頭を下げた。

 その呼吸の揃い方は、もはや訓練ではなく“演出”に近い。

 まるで公爵家の謁見式のような壮観だった。


 天井は高く、内装は古風ながら手入れが行き届いており、壁には重厚な油絵と西方風の甲冑が並んでいた。

 明らかにただの商家ではない。

 この国の中枢、あるいはそれに準じる者の屋敷に違いなかった。




 両脇の使用人を通り過ぎた先。


 扉の前で、白髪の老執事——セバスチャンが待ち構えていた。




「ルクス御一行様。さあ、ご主人様がお待ちでございます」




 その口調は柔らかくも、どこか芝居がかった恭しさが滲んでいる。




「お宅のご主人というのは?」




 ルクスが問い返すと、セバスチャンは微笑を崩さずに答えた。






「エリシア様でございます」






「……」




 その名前を聞いた瞬間、ルクスの背筋に冷たいものが走った。




 エリシア——

 旅の途中、各地で耳にしたその名。

 だが、そこに名声や栄誉はなかった。




 曰く、死の商人。

 曰く、狂気の魔術師。

 曰く、優雅な独裁者。




 その名を口にした者たちは、口元を濁し、目を逸らした。

 関係筋ではこう囁かれている。


 エリシアと関われば、骨までしゃぶり尽くされるか、あるいは汚職のスケープゴートにされる——と。

 静かに消された者たちの噂。

 ありえないほど美味い話の裏で消えた協力者。

 手段を選ばず結果を出す者。




 ルクスは無意識にアイスソードの柄に触れた。


 この屋敷の中には、ただならぬ何かが潜んでいる。

 そう確信するには、十分すぎるほどの“歓迎”だった。




 応接間に通された一同。




「ウェルカムドリンクでございます」




 ——コト




 銀盆の上に乗せられたのは、意外にもオレンジジュースだった。




 きらびやかな茶器や酒精飲料を想像していたが、出てきたのは庶民的で、どこか拍子抜けするようなチョイス。




 ——ズズうう




 シスターは遠慮するそぶりもなく、ストローを咥えて音を立てて飲み始めた。

 態度に迷いはない。むしろ場に馴染みすぎていて逆に緊張感を削ぐ。




 魔術師は少しの間、グラスの水面を覗き込むように見つめてから、静かに口をつけた。

 氷の動きや表面の泡をじっと観察していたその様子は、相変わらず“毒見”にも見える。




 バーサーカーはというと、誰よりも早く壁に目を留めていた。


 その視線の先には、装飾用のモーニングスター。

 黒鉄製の球体に棘が並び、鎖が絡みつくように吊るされている。

 彼女はずっとそれを見上げたまま動かない。




 応接間は、意外にも狭かった。




 廊下や玄関のあの豪奢さとは対照的に、過剰な装飾はなく、内装も控えめ。

 壁は白を基調にした漆喰仕上げ、床は濃色の木材。机も座面も実用的で、金箔の類はどこにも見当たらない。




(……なぜこんな狭い応接間に?)




 ルクスは首を傾げた。




 これほど権威を誇示するような屋敷にして、肝心の応接の場がこのサイズというのは異様だった。

 いや、異様というより“計算されている”のかもしれない。




 この配置、この距離。

 もし真正面にエリシアが座れば、ルクスの剣が届く。

 それは警戒していないのか、それとも「届いても意味がない」という自信か。




「埃がないわ」




 魔術師が呟いた。




 彼女はソファの肘掛けやテーブルの縁に指を這わせるように撫で、確かめるような動作を繰り返していた。

 一切の塵も見つからず、指先を軽く払ってからオレンジジュースをもう一口。




 シスターはというと、ウェルカムドリンクの紙ストローを口にしたまま、ずっとスマホを見続けている。

 目線が忙しく動き、指先のスワイプも高速だった。




「……ヨシヨシ! いけ! させ! 追い抜けええぇ」


「……」




「よ〜しよしよし!」


「何見てるの?」




 ルクスが思わず声をかける。




「え、あ、いや……大聖堂の洗礼の様子を見ていました。」




 顔だけこちらに向けて、即座に表情を切り替えるあたり、手慣れたものだ。




「洗礼?」


「子供が生まれたり、改宗者には洗礼の儀式をするんです。すごく光栄なことですので」




「そうか……」




 それ以上は深く追求しないことにした。

 ルクスはふと視線を上げ、違和感を覚える。




 ——ジャラッ




 バーサーカーが壁に飾られていたモーニングスターを、いつの間にか手に持っていた。

 その重量のせいか、持ち上げた拍子に鎖が揺れ、鈍い音を立てる。




「おい! やめろ! 怒られるぞ!」




 ルクスが小声で制止する。




「あ、すまんな……ちょっと触ってみたくて」




 答える声は妙に平坦で、反省の色はあまり感じられなかった。




 ——ガチャ




 バーサーカーはモーニングスターを雑に戻し、

 鈍い音を立てて鎖が再び揺れた。




 応接間には再び沈黙が流れる。

 エリシアの登場を前にして、空気は静かに、しかし確実に、歪み始めていた。




 ——ガチャ




 応接間の扉が静かに開かれ、老執事セバスチャンが姿を現した。




「大変お待たせしてしまいました」




 背筋を真っ直ぐに伸ばした姿勢、年季の入った口調、そしてまったく乱れのない所作。

 彼の存在自体が、この屋敷の“格式”を如実に物語っていた。




「いえ、構いません」




 ルクスが応じると同時に、セバスチャンは恭しく一礼し、そのまま部屋の隅へと下がる。




 そして——

 彼と入れ替わるように、ゆっくりと室内へと歩みを進めてきたのは——






 エリシア。






「お待たせしましたわね〜」




 その声とともに、空気が変わった。




 ——ぞ




 何かが、ルクスの背中を撫でた。

 冷たいとも、重いとも、言い切れない。

 だが確かに“異常な圧”が、音もなく部屋に広がった。




 他の三人は変わらず座っている。

 だが、それは“感じていない”のではなく、“最初からその中にいた”からこそ違和感を持たないのかもしれない。




 ちょうど、あまりにも広大な大地の上に立つ者が、それを“地面”だと信じて疑わないように。




 あるいは、巨大な竜の背に生きる者が、自分が“竜に乗っている”などとは露ほども思わないように。




 もしくは、この重圧がルクスひとりにだけ向けられているのだとしたら、彼女の眼差しはあまりに無感情に見えて逆に鋭かった。




 エリシアは、何事もなかったかのようにソファに腰を下ろした。

 その動作一つとっても、徹底された余裕と確信が滲んでいる。




「あなたがルクス……ですわね」




 確認するように呟く声は柔らかかったが、その内側に何層もの思惑が潜んでいるのが分かった。

 ただの問いかけではない。


 “ここに存在する価値があるのか”という目線でもあった。




「はい。初にお目にかかります。この度はこのような若輩者に謁見の機会を与えていただくとは非常に光栄に思っております」




 ルクスは立ち上がり、背筋を伸ばして丁寧に頭を下げた。

 それは冒険者というより、どこか武家の作法に近いものだった。




 だが、彼の内心には警戒の炎が灯っていた。




 この空間、この女——

 何かが違う。

 根本的に、常識の枠に収まる存在ではない。


「光栄」——その言葉に嘘はなかったが、含んだ意味はひとつではなかった。




 エリシアはふと、テーブルの上に置かれた4人分のグラスに目をやった。




「そのジュース、今朝方オレンジ農家に納入させましたの」




 にこやかに語るその声に、どこか“仕掛け人”としての誇りすら感じられた。

 すべての段取りが整えられ、すべての演出が仕込まれていた。


 ちょうどそのタイミングで、バーサーカーがグラスを置く音が響く。

 中身はすでに空で、彼女は何も言わずに口元を拭っていた。




 ルクスはまだ手をつけていなかった。




 ——チラッ




 エリシアは、さりげなく彼の前にあるコップを見やる。




「大丈夫ですわよ。コップはちゃんと洗いましたもの」




 言葉の端に、微かに笑みが混じっていた。

 それはまるで「不安なのは分かってますわよ」とでも言いたげな柔らかさだった。




 今度は魔術師の方に視線を移す。

 魔術師は何も言わず、ただ静かに一度、頷いた。




「……」




(全部……見ていた……?)




 ルクスの脳裏に寒気が走る。

 単に紅茶の砂糖の有無を見ているのではない。


 彼女の視線は、人間の癖や性格、行動の動機にまで踏み込んでくるようだった。




 ——じゃらっ




 唐突に響く金属音。


 エリシアの背後で、バーサーカーがさっき雑に戻したモーニングスターの鎖がわずかに揺れた。




「いい武器ですわね、あれ。気に入ってますのよ」




 エリシアは軽く微笑んだまま、振り返らずに言った。

 その言葉の意味を一番理解しているのは、当の本人バーサーカーだ。




「そ、そうでございますか」




 様子を伺うように、ルクスが相槌を打つ。

 声がわずかに上ずっていた。






「差し上げますわよ」






「……」


「……」




 エリシアは微笑を崩さずに、バーサーカーとまっすぐに目を合わせている。




 沈黙。

 だが、その沈黙は明らかに情報のやり取りに満ちていた。

 言葉にしなくても、何かが伝達されている——そういう“場”だった。




(やはり……全部知っている……)




 ルクスは確信した。

 これは“ただの屋敷訪問”などではない。

 すでに彼らは掌の上だったのだ。


 情報も行動も、感情の揺らぎすらも、すべては密偵を通じて彼女の元に届いていた。




「ダークドラゴンの一件、お見事ですわ。あれほどの竜を単騎で堕とすとは」




 エリシアの声音には賞賛の色が確かにあった。


 だがそれは、拍手や喝采ではなく——まるで精密な道具を手に取った職人が「良い刃ね」と言うような、そんな質感だった。




「いえ、運が良かったまでです。あのままずっと空からブレスを吐かれていてはジリ貧だったでしょう」




 ルクスは静かに応じた。

 声色も表情も崩さない。

 謙遜に聞こえても、彼の中では事実だった。

 あれは勝てた戦ではなく、勝ち“きれた”だけの戦だった。




「ところで、冒険者ギルドでは昇進があったと支部長から聞いてましたの」


「……」




 唐突に核心へ踏み込んでくる。

 穏やかな口調のまま、情報の確認が行われている。




「何階級上がりましたの?」


「規定通り、1階級ですが」




「ケチですわね」




 微笑みを浮かべながら、エリシアはあっさりと断じた。

 その口ぶりには悪意も怒りもない。

 ただ、単純に「不当評価」としての寸評だった。




「……」




 ルクスは眉ひとつ動かさず沈黙した。




「あなたなら飛び級でマスタークラスにするべきですわね。私の方から口添えしても?」




 茶を飲むように自然な提案だった。

 それは甘言にも聞こえたし、試金石にも思えた。




「いえ、それは身の丈に合いません。経験が伴わないランクなど、いい笑い者ですから」




 ルクスの声は淡々としていた。

 それは謙遜というより、信条に近いものだった。




「ご謙遜を」


「事実です」




 静かな一言が返る。

 両者とも、笑わなかった。

 だが、互いの内面では既に“値踏み”が始まっていた。




「ですが、それなりの人間には、それなりの舞台があるべきですわ」




 エリシアはゆったりとした口調で言いながら、ふと、シスターの方へと視線を送った。




 その目線を感じ取ったのか、あるいは最初から聞いていたのか、シスターは今はスマホを見ていなかった。普段の脱力した態度とは打って変わって、姿勢を正し、手を膝の上に揃えている。




「確か、立ち寄った街で飢える者たちに施しをしているとか」


「施しというほどにございません。気休め、というべきでしょうか」




 明瞭な声だった。

 いつものシスターとはまるで別人のように、理路整然とした口調。

 顔には笑みのひとつもないが、礼節だけはきっちりと保たれていた。




「その気休めですら、得られない者は多いと聞きますわ」




 エリシアはその言葉を一度だけ反芻するように呟き、そして再びルクスへと向き直った。




「ダークドラゴンの一件はあなたの実力。卑屈になるのは、他の実力者に失礼ですわね」


「……」




 それは叱責ではなかった。

 だが、軽く聞き流せる類の言葉でもなかった。






「それに、あなた方の旅には“大きな目的”があるとは思えませんの」






「な、なに……」




 思わず声が裏返った。

 しかしエリシアは微笑を崩さず、追い打ちをかけるように言葉を続ける。




「あなたが話を蹴った商会のご主人から聞きましたけど……『ただ世界を見て回りたい』そうおっしゃっていましたものね」




「……」




 全部、筒抜けだった。


 その商会の勧誘も、断ったときの言葉も、感情の揺れも。

 まるでその場にいたかのように正確な引用。




(いや……あの時の商会の勧誘は……ここに至るまでの……下ごしらえ……?)




 背筋に、ぬるい冷汗が這う。


 まるで何ヶ月も前から計画されていた“儀式”の、最後の扉の前に立たされた気分だった。

 気がつけば、バーサーカーがじっとチャックを撫でている音だけが、やけに耳に残っていた。




 このままではエリシアの流れに飲み込まれるだけだ。

 ルクスは一呼吸おいて、意識的に会話の主導権を握りにかかった。




「エリシア様。非常に申し訳ありませんが、実は私もギルドの依頼が立て込んでおりまして……」


「ほう……」




 エリシアの声は穏やかだったが、その奥に何かの“スイッチ”が入る音がした気がした。




「単刀直入に言いますが……今回はどういったご用件でしょうか?」






「私の派閥に入っていただきましょう」






(来た)




 ——ゴクリ




 喉の奥で生唾を飲み込む音。

 ルクスは背筋を伸ばしながらも、指先の汗を感じていた。




「このままギルドにいたところで、体を削って手に入れられるのは少しのお金と名誉。ですが……確か……名誉を欲しがるという感じでもないのでしょう?」




「……」




 ここで「名誉が欲しいです!」と叫ぶほど愚かではない。

 エリシアの視線はそれを測っていた。






「私の直轄部門にいてくだされば……そうですわね……5000万G。一年で」






「……!」




 額面に目が眩みそうになる。

 だが、さっきの屋敷の規模と使用人の数、装備の精巧さを思い出す限り、これは現実的な数字だった。




「お仲間にも、2500万G差し上げましょうかね」


「えぇ!? 2500万Gですって!?」




 シスターが勢いよく立ち上がった。

 椅子がきしみ、手元のスマホがカーペットの上に転がる。




「もちろんそれ以外にも……たとえば競馬に賭ける側じゃなくて……運営する側にして差し上げますが」




「それは非常に……うふふ」




 すでに懐からボールペンを取り出しているシスター。

 何にサインするつもりなのかは不明だが、とにかく早い。




 魔術師も金額を聞いた瞬間、目を見開いており、口元には動揺を隠しきれない表情が浮かんでいる。




「見たこともない魔物も食べ放題ですの」


「魔物? いや、私はただの人間だが?」




 窓の外を眺めながら、バーサーカーがぽつりと返す。

 視線は遠く、だがチャックは常に指先にあった。




「おっと、失礼」




 エリシアはにこやかに手を上げて詫びた。

 だがその笑みの奥に「食べさせてみたい魔物」がリストアップされている気がした。




 ルクスは、立ち上がる。




「申し訳ありませんが、お断りします」


「理由をお聞きしても?」




「まず、自分たちで必要な分は、自分たちで稼げます」


「……」




「過分な報酬をいただいたところで、身を滅ぼすだけ。僕たちには、多少のクエストと腕の見せ所があれば、それで十分です」




 ——ガタ




 ルクスは冷静に、ソファから立ち上がった。

 だが——






 誰も、立ち上がってこない。






「あぁ〜、ちょっとエリシア様と……話があるから待ってて……」




 シスターが気まずそうに言う。

 ボールペンは手から離されていない。




「足が痺れて……」




 魔術師はふくらはぎをさすりながら、小声で言う。

 目は依然、2500万の幻影を見ていた。




「んんん〜……ぬううぅ……ぬん!」




 バーサーカーはチャックを摘んだまま何かに耐えていた。

 力みすぎているのか、口元が引きつっている。




 少しの間、沈黙。




「やれやれ」




 エリシアが肩をすくめた。






「あのねぇ〜、私はねぇ、ルクス以外に興味ありませんの!」






「えぇ!?」

「えぇ!?」

「えぇ!?」




 三人が揃って飛び上がった。




「ルクスさんが来ないなら、あなた方は入りませんの! 帰っておくんなまし!」




「えぇええええぇ〜」




 ——バタン




 重く扉が閉まる。






 その後、三人はルクスと冒険を続けたがずっと「あの時」のことを根に持っていて、時々、獣のような視線を彼に浴びせてくるのだった。






「2500万Gかぁ……」




 シスターが呟く。

 その一言がルクスの心臓を突き刺す。




「お金って汚いのよ」


「でも、俺らは真っ当に働い——」




「じゃなくて、いろんな人の手垢がついてるの」


「……」




「それを触った手でパンを食べたりすると、ばい菌が入って汚いわ」


「……」




 その横で、バーサーカーが「ぬうう!」と唸りながら、首筋のチャックを上げたり下げたりしていた。




 ——ジイイイイイィ




「……」




 ——ジイイイイイィ




 ずっとチャックの開閉音だけが響く中、一同は今日も変わらぬ様子で次のクエストを探していた。




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チート能力で異世界転移して3人のヒロインに囲まれてるけどクセ強すぎてもう無理かもしれない @elicia

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