第4章 ― 書かれなかった物語 ―

葉月は古びた日記帳を一冊、本棚の隅から見つけた。

黄ばんだ表紙には何も書かれていなかったが、ページをめくると、かすかにインクの跡のような線がいくつもあった。

まるで、書こうとして書かれなかった文字たち。語りかけようとして途切れた声のような気配。


「これに書くの。あなたたちのことを」


ルカがその様子を静かに見守っていた。

「わたしたちは、ここで誰かに名を呼ばれるのを待っていた。でもね、それは“運”みたいなものだったの。どれだけ大切に作られても、たまたま読まれなければ、わたしたちは“いなかったこと”になるの」


葉月はペンを握った。


最初に書いたのは、シアンのことだった。

名前も、姿も、声も。自分の記憶にあるすべてを使って、彼の存在をこの世界につなぎとめるように書きつけていく。

心が震える。何かを失ったことの痛みと、今ここにあることの喜びが、ページの中で混ざり合う。


「物語って、読むだけじゃない。書くことでも、誰かに生きていてもらえるんだね」


その夜、本棚の奥で小さな変化が起きた。

沈みかけていた一冊の本が、かすかに光を帯びて揺れたのだ。



「――葉月」


ある日、誰もいないはずの書庫の奥から声がした。


「ルカ?」

「違うわ」


現れたのは、黒い装丁の本から抜け出た、少女のような存在だった。瞳の中に深い夜のような色が渦巻いている。


「あなたは……?」

「“未完”の物語よ。読みかけのまま、最後のページが書かれなかった私」


彼女は静かに笑った。


「でもね、あなたの言葉で、少しだけ続きを夢見られるようになった。だから、会いに来たの」


「続きを……?」


「そう。終わらせて。わたしを、誰かの心の中で完結させて」


少女は言った。それは命令ではなく、切実な願いだった。



その日から葉月は、読みかけの本を片っ端から開いていく。

途中で止まったままのセリフ、書きかけの旅路、伏線の張られたままの謎。

そうした欠片を拾い集めて、少しずつ物語を紡いでいった。


ルカがぽつりと呟く。


「葉月は、物語の“読者”で、“書き手”で……それでいて“登場人物”にもなったのね」


「登場人物に?」


「ええ。この世界に関わって、他の誰かを変えた。……もう、あなたは一冊の物語なの」


葉月は少しだけ微笑んだ。


――なら、私の物語も、きっと誰かが読んでくれるだろうか。

私が出会ったこの人たちのことを、誰かが愛してくれるだろうか。

いつか、見えない誰かの心に、彼らの魂が宿ってくれたら――。


そう思いながら、葉月は書き続ける。


夜が深まり、本棚の奥が静けさに包まれていく。

でもその静けさは、もう「忘れられた静けさ」ではなかった。

新しいページの始まりを待つ、“希望の静けさ”だった。

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