第4章 ― 書かれなかった物語 ―
葉月は古びた日記帳を一冊、本棚の隅から見つけた。
黄ばんだ表紙には何も書かれていなかったが、ページをめくると、かすかにインクの跡のような線がいくつもあった。
まるで、書こうとして書かれなかった文字たち。語りかけようとして途切れた声のような気配。
「これに書くの。あなたたちのことを」
ルカがその様子を静かに見守っていた。
「わたしたちは、ここで誰かに名を呼ばれるのを待っていた。でもね、それは“運”みたいなものだったの。どれだけ大切に作られても、たまたま読まれなければ、わたしたちは“いなかったこと”になるの」
葉月はペンを握った。
最初に書いたのは、シアンのことだった。
名前も、姿も、声も。自分の記憶にあるすべてを使って、彼の存在をこの世界につなぎとめるように書きつけていく。
心が震える。何かを失ったことの痛みと、今ここにあることの喜びが、ページの中で混ざり合う。
「物語って、読むだけじゃない。書くことでも、誰かに生きていてもらえるんだね」
その夜、本棚の奥で小さな変化が起きた。
沈みかけていた一冊の本が、かすかに光を帯びて揺れたのだ。
◇
「――葉月」
ある日、誰もいないはずの書庫の奥から声がした。
「ルカ?」
「違うわ」
現れたのは、黒い装丁の本から抜け出た、少女のような存在だった。瞳の中に深い夜のような色が渦巻いている。
「あなたは……?」
「“未完”の物語よ。読みかけのまま、最後のページが書かれなかった私」
彼女は静かに笑った。
「でもね、あなたの言葉で、少しだけ続きを夢見られるようになった。だから、会いに来たの」
「続きを……?」
「そう。終わらせて。わたしを、誰かの心の中で完結させて」
少女は言った。それは命令ではなく、切実な願いだった。
◇
その日から葉月は、読みかけの本を片っ端から開いていく。
途中で止まったままのセリフ、書きかけの旅路、伏線の張られたままの謎。
そうした欠片を拾い集めて、少しずつ物語を紡いでいった。
ルカがぽつりと呟く。
「葉月は、物語の“読者”で、“書き手”で……それでいて“登場人物”にもなったのね」
「登場人物に?」
「ええ。この世界に関わって、他の誰かを変えた。……もう、あなたは一冊の物語なの」
葉月は少しだけ微笑んだ。
――なら、私の物語も、きっと誰かが読んでくれるだろうか。
私が出会ったこの人たちのことを、誰かが愛してくれるだろうか。
いつか、見えない誰かの心に、彼らの魂が宿ってくれたら――。
そう思いながら、葉月は書き続ける。
夜が深まり、本棚の奥が静けさに包まれていく。
でもその静けさは、もう「忘れられた静けさ」ではなかった。
新しいページの始まりを待つ、“希望の静けさ”だった。
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