第3章 ― 消えるということ ―
「葉月……見て」
ルカが指差した先に、ぽっかりと空いた“穴”があった。
ページでできた床が破れ、インクが滲むようにその周囲がじわじわと薄くなっている。まるで紙の世界が腐食しているように、そこには何もなかった。
「消えたの?」
葉月は、言葉を選びながら訊ねた。
ルカは小さく頷いた。
「うん。あそこには、“シアン”って男の子がいたの。誰にも名前を呼ばれなかった、物語にも触れられなかった。……だから、消えちゃった」
「誰かが思い出してくれれば、戻ってこられるの?」
「いいえ。わたしたちには、時間がないの。ここにいる誰もが、だんだんページの隅に追いやられていく。やがて誰も開かなくなると、完全に“物語の外”に落ちてしまうの」
葉月は、インクのにじみをじっと見つめた。
そこにはかすかに、少年の影があったような気がした。だが、それもまた風に溶けるように、跡形もなく消えていった。
◇
それから葉月は、毎日ルカと一緒に“読まれなかった登場人物たち”の話を聞いた。
誰にも知られなかった名前、完成されなかった役割、途中で終わった台詞。
彼らの言葉に耳を傾けるたびに、葉月の心には新しい物語が少しずつ芽吹いていった。
「わたしが全部、書いていけたらいいのに」
そんな葉月の呟きに、ルカは首を振った。
「それはたぶん、できないの。でも……あなたの“覚えていること”が、わたしたちを形にしてくれるの」
「本の内容じゃなくても?」
「そう。あなたがどんなふうに感じたか、なにを想ったか……それだけで十分、わたしたちは“物語”になるの」
その夜、葉月は夢の中で“シアン”に会った。
彼はとても静かに微笑んでいたが、声を出すことはなかった。
言葉を持たないまま、彼は葉月の手をそっと握った。
——忘れないでくれてありがとう。
そんな気がした。
朝、目が覚めたとき、葉月はシアンの姿を忘れていなかった。
髪の色、瞳の形、背丈、小さな笑い方。物語のどこにもなかったはずの彼の面影が、心の中にしっかりと残っていた。
◇
その日から、葉月はノートを一冊持ち歩くようになった。
そこには、ルカやシアンや、まだ名もない登場人物たちのことが丁寧に書き留められていった。
「これは、あなたたちの“物語のはじまり”だから」
そんな言葉とともに。
だが、その一方で、ページの崩れは日に日に増えていった。
読まれなかった本が、本棚ごと沈んでいくように、無数の世界が静かに終わりを迎えようとしていた。
——このままだと、全部、消えてしまう。
そう思った葉月は決意する。
自分にできるかどうかはわからない。
けれど、ただ聞くだけでは、間に合わない。
「ルカ。……わたし、物語を書くよ」
少女の影が、少し目を見開いた。
その瞳の奥に、言葉にできないほどの光が生まれた。
「ありがとう」
それは、読まれることなく消えていった無数の声の、最初の“返事”だった。
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