第3章 ― 消えるということ ―

「葉月……見て」


ルカが指差した先に、ぽっかりと空いた“穴”があった。

ページでできた床が破れ、インクが滲むようにその周囲がじわじわと薄くなっている。まるで紙の世界が腐食しているように、そこには何もなかった。


「消えたの?」

葉月は、言葉を選びながら訊ねた。


ルカは小さく頷いた。


「うん。あそこには、“シアン”って男の子がいたの。誰にも名前を呼ばれなかった、物語にも触れられなかった。……だから、消えちゃった」


「誰かが思い出してくれれば、戻ってこられるの?」

「いいえ。わたしたちには、時間がないの。ここにいる誰もが、だんだんページの隅に追いやられていく。やがて誰も開かなくなると、完全に“物語の外”に落ちてしまうの」


葉月は、インクのにじみをじっと見つめた。

そこにはかすかに、少年の影があったような気がした。だが、それもまた風に溶けるように、跡形もなく消えていった。



それから葉月は、毎日ルカと一緒に“読まれなかった登場人物たち”の話を聞いた。

誰にも知られなかった名前、完成されなかった役割、途中で終わった台詞。

彼らの言葉に耳を傾けるたびに、葉月の心には新しい物語が少しずつ芽吹いていった。


「わたしが全部、書いていけたらいいのに」

そんな葉月の呟きに、ルカは首を振った。


「それはたぶん、できないの。でも……あなたの“覚えていること”が、わたしたちを形にしてくれるの」

「本の内容じゃなくても?」

「そう。あなたがどんなふうに感じたか、なにを想ったか……それだけで十分、わたしたちは“物語”になるの」


その夜、葉月は夢の中で“シアン”に会った。

彼はとても静かに微笑んでいたが、声を出すことはなかった。

言葉を持たないまま、彼は葉月の手をそっと握った。


——忘れないでくれてありがとう。


そんな気がした。

朝、目が覚めたとき、葉月はシアンの姿を忘れていなかった。

髪の色、瞳の形、背丈、小さな笑い方。物語のどこにもなかったはずの彼の面影が、心の中にしっかりと残っていた。



その日から、葉月はノートを一冊持ち歩くようになった。

そこには、ルカやシアンや、まだ名もない登場人物たちのことが丁寧に書き留められていった。

「これは、あなたたちの“物語のはじまり”だから」


そんな言葉とともに。


だが、その一方で、ページの崩れは日に日に増えていった。

読まれなかった本が、本棚ごと沈んでいくように、無数の世界が静かに終わりを迎えようとしていた。


——このままだと、全部、消えてしまう。


そう思った葉月は決意する。

自分にできるかどうかはわからない。

けれど、ただ聞くだけでは、間に合わない。


「ルカ。……わたし、物語を書くよ」


少女の影が、少し目を見開いた。

その瞳の奥に、言葉にできないほどの光が生まれた。


「ありがとう」


それは、読まれることなく消えていった無数の声の、最初の“返事”だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る