第2章 ― 名前のない子どもたち ―

葉月は、言葉が空に舞うその場所に立ち尽くしていた。

風もないのに、空気がひらひらと揺れているように見える。地面はあいかわらずページでできていて、ところどころに滲んだインクのしみが広がっていた。


「ここは……本の中?」


そう問うと、先ほど声をかけてきた少女の影が頷いた。

「そう。でも、まだ誰にも読まれてない本の、奥の奥」

「奥の奥……?」


「わたしたちは、書かれたけど、読まれなかったの」

「名前もつけられなかった。役割も、物語も、結末もないまま、ここにいるの」

「本棚の奥には、そういう場所があるの。誰も来ない、読まれない、思い出されない場所」


葉月は少女の影を見つめた。

確かにそこには“人”の形があるのに、目も鼻も、髪の色も服も、何一つ思い出せない。輪郭だけが確かに存在し、けれど個性を持たない。


「じゃあ、あなたの名前は……?」

「ないの。でも、あなたが呼んでくれたら、それが“最初の名前”になるのかもしれない」


少女の影は、ほんの少しだけ微笑んだような気がした。


葉月は迷いながらも、小さく口を開く。

「じゃあ……“ルカ”って、呼んでいい?」

「ルカ……?」


少女の姿が、微かに揺れた。

インクのしみが、輪郭の内側をゆっくりと染めるように、形が、色が、じわじわと生まれていく。


「……ルカ、か。なんだか、懐かしい感じがする」


そう呟いたルカの目元に、淡い光が差し込んだ。

確かに彼女は、今、ここで“名を得た”。


それが、この世界の“ルール”だった。



ルカに案内され、葉月はページの森を歩いた。

巨大な本棚がそびえるように並び、天井も床もページでできた不思議な空間。

その合間を縫って、たくさんの“影”たちが暮らしていた。


彼らは、誰かに呼ばれるのを待っていた。

けれど時が経つほどにその姿は薄れ、ページは破れ、やがて何もかも忘れられていく。


「ねえ、葉月」

ルカが立ち止まって、こちらを見た。

「どうしてあなたは、わたしたちのところに来られたの?」


その問いに、葉月は答えられなかった。

でも、ふとポケットの中の本の感触を思い出した。

あの古本屋で手にした、表紙もタイトルもない一冊。


「きっと、この本が……あなたたちを呼んだのかも」


「そっか。なら、あなたにはできることがあるかもしれない」


「できること?」


「名前をつけて。覚えていて。あなたが“読んで”くれれば、わたしたちは消えずにいられるの」


ページの風が、そっと葉月の髪を揺らした。


その瞬間、彼女は気づく。


——これは、誰にも読まれなかった彼らの物語。

でも、わたしが読むことで、それは“本当の物語”になっていく。


その夜、葉月はひとりで本棚のページに座り、ルカたちの話を聞いた。

どんな話が好きで、どんな場所に住んでいて、どんな夢を見ていたか。


誰にも読まれなかったけれど、確かに存在していた登場人物たちの、言葉にならなかった物語たちを。



その夜から、葉月の“読書”が始まった。

ただページをめくるのではない。記憶されなかった物語を、彼女自身の心で読み、紡いでいく行為。


誰かの書いた一節が、今、彼女の中で息を吹き返す。


——忘れ去られた者たちに、物語を。

それが彼女の、最初の“仕事”だった。

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