第2章 ― 名前のない子どもたち ―
葉月は、言葉が空に舞うその場所に立ち尽くしていた。
風もないのに、空気がひらひらと揺れているように見える。地面はあいかわらずページでできていて、ところどころに滲んだインクのしみが広がっていた。
「ここは……本の中?」
そう問うと、先ほど声をかけてきた少女の影が頷いた。
「そう。でも、まだ誰にも読まれてない本の、奥の奥」
「奥の奥……?」
「わたしたちは、書かれたけど、読まれなかったの」
「名前もつけられなかった。役割も、物語も、結末もないまま、ここにいるの」
「本棚の奥には、そういう場所があるの。誰も来ない、読まれない、思い出されない場所」
葉月は少女の影を見つめた。
確かにそこには“人”の形があるのに、目も鼻も、髪の色も服も、何一つ思い出せない。輪郭だけが確かに存在し、けれど個性を持たない。
「じゃあ、あなたの名前は……?」
「ないの。でも、あなたが呼んでくれたら、それが“最初の名前”になるのかもしれない」
少女の影は、ほんの少しだけ微笑んだような気がした。
葉月は迷いながらも、小さく口を開く。
「じゃあ……“ルカ”って、呼んでいい?」
「ルカ……?」
少女の姿が、微かに揺れた。
インクのしみが、輪郭の内側をゆっくりと染めるように、形が、色が、じわじわと生まれていく。
「……ルカ、か。なんだか、懐かしい感じがする」
そう呟いたルカの目元に、淡い光が差し込んだ。
確かに彼女は、今、ここで“名を得た”。
それが、この世界の“ルール”だった。
◇
ルカに案内され、葉月はページの森を歩いた。
巨大な本棚がそびえるように並び、天井も床もページでできた不思議な空間。
その合間を縫って、たくさんの“影”たちが暮らしていた。
彼らは、誰かに呼ばれるのを待っていた。
けれど時が経つほどにその姿は薄れ、ページは破れ、やがて何もかも忘れられていく。
「ねえ、葉月」
ルカが立ち止まって、こちらを見た。
「どうしてあなたは、わたしたちのところに来られたの?」
その問いに、葉月は答えられなかった。
でも、ふとポケットの中の本の感触を思い出した。
あの古本屋で手にした、表紙もタイトルもない一冊。
「きっと、この本が……あなたたちを呼んだのかも」
「そっか。なら、あなたにはできることがあるかもしれない」
「できること?」
「名前をつけて。覚えていて。あなたが“読んで”くれれば、わたしたちは消えずにいられるの」
ページの風が、そっと葉月の髪を揺らした。
その瞬間、彼女は気づく。
——これは、誰にも読まれなかった彼らの物語。
でも、わたしが読むことで、それは“本当の物語”になっていく。
その夜、葉月はひとりで本棚のページに座り、ルカたちの話を聞いた。
どんな話が好きで、どんな場所に住んでいて、どんな夢を見ていたか。
誰にも読まれなかったけれど、確かに存在していた登場人物たちの、言葉にならなかった物語たちを。
◇
その夜から、葉月の“読書”が始まった。
ただページをめくるのではない。記憶されなかった物語を、彼女自身の心で読み、紡いでいく行為。
誰かの書いた一節が、今、彼女の中で息を吹き返す。
——忘れ去られた者たちに、物語を。
それが彼女の、最初の“仕事”だった。
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