第1章 ― 書かれたけれど、読まれなかった ―
雨が降っていた。
細い糸のような雨が、葉月の傘に淡く当たり、静かな音を立てていた。
学校帰りの足取りは自然と遅くなり、彼女はふと、ひとつ裏道に入った。
それは昔、まだ子どもだった頃、母に連れられて何度か訪れたことのある古本屋があった通りだった。
看板はすでに色褪せ、文字のかけらだけが辛うじて残っている。けれど、入り口に吊るされた小さな札には、確かにこう書かれていた。
「営業中」
葉月は、自分でも理由がわからないまま、その扉を押した。
中は静かだった。木の匂いと、古い紙の乾いた香り。
棚の間に人の気配はなく、奥のレジも無人だったけれど、なぜか不思議と怖さはなかった。
むしろ安心するような、懐かしいような感覚。
——あ、ここ……。
ふと、記憶がよみがえった。
小さい頃、母に連れられてここに来たとき、ずっと立ち読みをしていた自分を優しく見守ってくれていた店主の笑顔。
名前も知らないその人の面影は、すでに曖昧だったけれど、その優しさだけは不思議と胸に残っていた。
葉月は足の向くままに、本棚の奥の奥へと歩いていった。
普段の本屋では目にしないような、手書きのタイトルが並ぶコーナー。埃がかぶった背表紙、カバーのないもの、誰かの名前が書かれたしおりが挟まれた本。
そして、ひとつの本に手が止まった。
表紙はない。題名も、著者名もわからない。
けれどなぜか、その本だけがほんの少しだけ暖かく感じられた。
開いた瞬間、ページがふっと風にめくられる。
——かさり。
その音と同時に、葉月の視界がふっとかすんだ。
気づけばそこは、本棚の中ではなかった。
◇
「……ようこそ」
どこかで誰かが、確かにそう言った。
葉月の立つ場所は、まるで舞台の袖のようだった。
足元はページでできた床、空には言葉が浮かび、世界はインクのような空気に包まれていた。
前方には、何人もの人影があった。
けれど、その誰もが、色を持っていない。
輪郭が曖昧で、まるでまだ“描かれきっていない存在”のようだった。
「あなた、読者なの?」
そう問いかけたのは、少女の姿をした影だった。
大きな瞳をこちらに向け、少し怯えるように葉月を見ていた。
葉月は頷く。けれど、同時に理解した。
——彼女たちは、物語の中の登場人物。
でもまだ一度も、読まれたことがない。
名前がない。性格も、運命も、結末も決められていない。
だから、まだ“誰にも存在を知られていない”。
「お願い……続きを、読んで。私たちのことを、忘れないで」
その声に、葉月の胸がぎゅっと締めつけられる。
この世界に入ってきたのは偶然だった。けれど、その偶然が物語の始まりなら。
きっと彼女には、読む役目があるのだと思えた。
——書かれたけれど、読まれなかった者たちの物語を、いま、読むということ。
それが彼女の旅の始まりだった。
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