第2話 他人のやさしさ/外からの視点

 「おーい、大丈夫か?」


 声がした方向に顔を向けると、制服姿の男性がこちらを見ていた。

 帽子の下の目元が、どこか心配そうで、やさしさを含んでいた。


 和夫はとっさに立ち上がろうとしたが、膝がうまく動かなかった。

 体の奥が鉛のように重い。


 「すみません……すぐ、どきます」

 和夫の口から自然に出たのは、謝罪だった。

 何に対してかも分からず、ただ「邪魔してすみません」とでも言いたげな、癖のような言葉。


 警察官はそれには答えず、近くまで来て和夫の横にしゃがみ込んだ。

 「こんな朝早くから、ひとりで海見てる人は珍しいからさ。気になっちゃったよ」


 声は、柔らかかった。威圧感はない。でも、どこか芯がある。

 年の頃は五十代後半か。定年間際だろうか。


 「ちょっと疲れちゃって……」

 和夫は、そう答えるのが精一杯だった。


 「そうか。疲れるよなあ、生きてると」


 言葉のあいだに、波の音が入ってくる。

 その静けさの中で、和夫はほんの少しだけ呼吸ができたような気がした。


 「俺もね、ここ、よく来るんだよ。もう何十年も警察やってきて、いろんな人を見てきた。中には、どうにもならなかった人もいる。俺がもう少し話を聞いてたら、って後悔したこと、何度もあるよ」


 和夫は顔を上げた。

 警察官の横顔は、どこか寂しげだった。

 ただの“おまわりさん”じゃなかった。

 きっとこの人も、誰かを失ったのだ。


 「君がここにいて、声をかけられて、本当に……よかった」


 その言葉に、和夫の胸がわずかに揺れた。

 「よかった」なんて、言われたのはいつ以来だろう。


 和夫は視線を落とし、小さく息を吐いた。

 涙が出そうだったが、堪えた。


 「俺は、ただの通りすがりだけどさ……何か、誰かに言いたいこととかあるなら、言葉にしてみると少しは楽になるかもしれない。言葉って、口から出すことで、自分の中の重りを少しずつ外せるんだよ」


 和夫はうなずいた。

 でも、何を言えばいいのか分からなかった。

 今さら話したところで、何かが変わる気はしなかった。


 「名前、聞いてもいいか?」


 「……前出です。前出和夫」


 「和夫くん。いい名前だな」

 そう言って、警察官はポケットからくしゃくしゃの紙切れを取り出し、数字を書いて渡してきた。


 「これ、俺の番号。困ったら電話してくれていい。出られなかったら、折り返すから」


 そのメモを受け取る手が、ほんの少し震えた。


 「……ありがとうございます」


 「じゃあな。無理すんなよ」


 警察官は立ち上がり、ゆっくりと砂浜を歩いて去っていった。

 波の音だけが、また耳に戻ってくる。


 和夫は、渡された紙を見つめた。

 走り書きのような番号の上に、「ヤマダ」と書かれている。

 知らない人の名前。でも、確かに今、自分を見てくれた人だった。


 ポケットにメモをしまうと、ふと空が少しだけ明るくなっていることに気づいた。

 それでも、胸の中にはまだ深い霧が残っていた。


 ──少しだけ、呼吸ができた。でも、まだ、立ち上がれる自信はなかった。


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