第3話 トラウマ/赦しの難しさ

 砂浜の上に、静かに座っていた。

 さっきの警察官とのやりとりから時間がたったのかどうか、よくわからなかった。

 波の音は変わらず、耳の奥で繰り返されている。


 和夫はぼんやりと足元の砂を指でなぞっていた。

 何かを掘り返すように。記憶の底に沈めた何かを、無意識に。


 「前出くん……だよね?」


 不意に、背後から聞こえた声に心臓が跳ねた。

 懐かしく、けれど耳に触れた瞬間に全身が強張る、あの声だった。


 振り返ると、そこにいたのは和田だった。

 中学校のときの担任の教師。

 少し老けたように見えたが、面影は変わっていない。


 「先生……」


 思わず声に出ていた。

 吐き出されたその言葉が、口の中に苦く残った。


 「久しぶりだね。……君のこと、ずっと気になってた。ずっと……」


 和田は、所在なさげに笑ってみせた。

 その笑みが、当時の“曖昧な目”を思い出させた。

 誰にも深く関わらず、いつも教室の空気を斜めから見ていた教師。


 「……謝りたくて、さ」


 言われる前に、和夫にはわかっていた。

 この場面は、心のどこかで“想定していた”気がする。

 妄想なのか、幻なのか――そんなことは、どうでもよかった。


 「前出くんが、いじめられてたのは、わかってた。

 でも、見て見ぬふりをしてしまった。……言い訳だけど、俺は担任になったばかりで、学校全体を敵に回したくなかった。保護者とのトラブルも怖かったし……」


 「……」


 和夫は何も言わなかった。

 けれど、胸の奥がひどくざわついていた。


 「本当に……ごめん。俺がちゃんと向き合っていれば、君はあんなに傷つかずに済んだかもしれないのに……」


 波の音が、ひどく遠く感じた。

 和田の言葉は、頭に入ってこなかった。

 ただ、胸の中にある“怒り”だけが、静かに膨らんでいく。


 なぜ今さら?

 なぜ、あのときじゃなかった?

 ずっと、毎日、何かを壊されて、誰にも話せなくて、親にさえ無視されて。

 学校に行くのが地獄だった。あの時、ただ「大丈夫か」と言ってくれるだけでよかったのに。


 「……ありがとう」


 口から出た言葉は、心とは裏腹だった。

 その場に流れる空気を乱さないための、条件反射のような「ありがとう」。


 和田は、少し安堵したような顔をした。


 「君が無事でよかった。本当に……それだけが心配だったんだ」


 違う。

 無事なんかじゃない。

 こっちは、今でもあの頃の夢を見る。無視される夢。笑われる夢。

 それなのに――どうしてあんたは、そんなにすっきりした顔でいられるんだ。


 何も言わなかった。言えなかった。

 ただ黙って、和田の視線を受け止めることだけで、精一杯だった。


 「じゃあ、元気でね」


 和田は、小さく手を振って、砂浜を去っていった。

 背中を見送っていると、不思議と肩の力が抜けていくのを感じた。


 怒っていた。悲しかった。今も、全部消えたわけじゃない。

 でも――。


 「……何なんだよ、もう」


 ぽつりと和夫はつぶやいた。


 波の音が、また、少しだけ近づいてくるような気がした。

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