海へ還る

@bears_family

第1話 限界/逃避

朝、アラームは鳴った。いつもと同じ音で。

 だけど、和夫はそれを止めようとすらしなかった。


 仕事に行かなくちゃ。

 そう思ったのは一瞬だった。だけど次の瞬間には、もうその声すら自分の中から消えていた。


 布団の中でうつ伏せになったまま、息苦しさをやり過ごす。

 昨日も怒鳴られた。理不尽なこともあった。

 恋人だった葵は、もう連絡すらくれない。

 誰にも必要とされていない気がして、気がつくと涙がこぼれていた。


 「逃げたい」というより、「消えたい」だった。

 それでも、死にたいとも言い切れない自分がいた。


 スマホを手に取り、「海」とだけ検索した。

 海を見に行こう。意味なんてなかった。ただ、波の音が聞きたかった。

 それだけでいい。何かを決めたいわけでも、癒されたいわけでもない。

 ただ、行こうと思った。


 いつもより少し早い朝。まだ曇っている空の下、和夫は電車に揺られながらぼんやりと窓の外を眺めていた。

 気づけば、自分の名前を頭の中で何度も繰り返していた。

 ──前出和夫。

 誰がこの名前を呼んでくれるのだろう。誰がこの名前を、大切にしてくれるのだろう。


 やがて電車は終点に着いた。駅を出て、歩きながら、心の中で何度もつぶやいた。


 「もう、頑張れないかもしれない」


 海は広く、静かだった。

 足を砂浜に踏み入れた瞬間、ふと、自分がずっとここにいたような気がした。

 何も言わず、何も責めず、ただ受け入れてくれるような広さがあった。


 和夫は座り込んで、波を見つめた。

 遠くで白く砕ける波の音が、体の芯まで染み込んでいくようだった。

 このまま、波に溶けてしまってもいいんじゃないか。

 そんなことを考えていた。


 ふと、誰かが自分を呼ぶ声がした。

 耳鳴りのような、遠い声だった。


 「──おーい、大丈夫か?」


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