第3話 黙祷の朝に

 翌朝、僕たちは制服に着替え、学生隊本部の前に整列した。見林さんも同じ列に加わっている。皆、目が赤かった。

 ほどなく扉が開き、僕たちは一人ずつ中へと入っていった。背筋を伸ばし、直立不動の姿勢をとる。


 学生隊司令は机に座ったまま顔を上げた。五十手前の大佐で、鋭い目が印象的だ。重い沈黙ののち、口を開く。


「亀嶋学生の死亡推定時刻は、昨夜二十時前後。つまり点呼の時点で、彼はすでに死亡していた」


 馬場の肩がかすかに震えた。僕たちのせいではなかった。その事実が、ほんのわずかな救いに思えた。


「とはいえ、君たちの行為は軍規上の偽証にあたる。悪意がなかったとしても、行為そのものは許されない」


 誰も声を発しなかった。ただ黙って司令の言葉を受け止める。

 司令は静かに書類をめくり、一枚を取り出して机に置いた。


「以上の行為に対し、一週間の謹慎処分を命ずる」


 同室者の死亡と偽証行為。退校になってもおかしくはなかった。一週間の謹慎は重い処分だが、亀嶋の命と比べたら、あまりにも軽く思えた。


「期間中は訓練すべてを停止。食事と入浴、点呼を除く時間は、居室内にて自習および反省に努めること。……よろしいな?」


「はっ!」


 僕たちは声を揃えて答えた。そして敬礼し、静かに退室した。

 

 部屋に戻った僕たちは、ずっと黙ったままだった。誰も口を開くことができない重い空気が、部屋を支配していた。

 苦しさに耐えきれず窓を開けると、号令が途切れ途切れに届いた。外では朝礼が始まっているようだ。でも、何を話しているのかまでは分からない。

 僕たちはただ、室内で起立していた。


「黙祷」


 風の具合か、その号令だけははっきりと聞こえた。僕たちは目を閉じた。

 亀嶋の明るい笑顔が瞼の裏に浮かぶ。はっと目を開け部屋を見回したが、もちろん居るはずは無い。啜り泣きが漏れ聞こえる。馬場の声だ。僕も気づけば、涙をこぼしていた。

 

 それから僕たちの班は、通常とは違い、一番最後に食堂の隅で朝食をとった。すでに他の学生たちは午前の授業に向かっていて、食堂には誰も残っていなかった。

 味のしない食事をどうにか胃袋に詰め込んで、部屋へ戻る。

 

 午前中は、講義内容に基づく自学自習。一限目の外国文、僕と亀嶋は独語、他の三人は仏語を選んでいた。


 亀嶋は最初の頃、僕しか頼れないと思っていたのに、途中で見林さんの方が独語が堪能だと知ると、あっさりと乗り換えた。そんなことをふと思い出す。静かな部屋に秒針の音だけが響く。

 

 寝不足と悲しみで頭はほとんど働かなかったけれど、四限目の航海術で気象図を書いていると、また亀嶋のことを思い出した。

 亀嶋は迷うといつも『快晴』と書いていた。どう見ても台風前の図でも、だ。

「晴れだと泳ぎやすい」それが彼の判断基準だった。

 ふと、窓の外に目をやった。空は、嘘のように晴れていた。

 午後は水練。亀嶋にとってはご褒美の日で、僕にとっては拷問の日。この晴天を見たらしっかり泳げると歓喜したに違いない。でも、もう亀嶋はいない。

 

 昼食は水練を見据えた高エネルギーのメニューだった。魚のフライ、味噌汁、大盛りの麦飯、バナナまでついている。

 寝不足の胃が悲鳴をあげる。僕はなんとか詰め込んだ。

 亀嶋だったら余裕の量だ。水泳のシーズンが来てから毎日「腹が減った」を連発していたもんな。夜に飴とか舐めていたし。


 馬場はどうにか食べ切ったが、直後に吐いたらしい。口を押さえて便所に駆け込み、遅れて部屋に戻ってきた。

 嘔吐後もまだ青い顔の馬場を見て、見林さんが見回りの下士官に静かに頭を下げた。


「体調不良の者がおります。短時間でも、横にならせていただけませんでしょうか」


 謹慎中の昼間に横になるのは、本来厳禁だ。下手をすれば、反省の意思なしと、処分が重くなる可能性もある。


「……二十分だけだ」


 下士官は腕時計をちらりと見て言い置き、立ち去った。

 

「下くんも、中山くんも、横になったほうがいい。一晩中立っていたんだろ」


 見林さんがそう言って優しく声をかけてくれた。横になると、身体の怠さがいくらか和らいだ。

 

 二十分が過ぎ、起きた下が掃除用具入れからバケツと雑巾を取り出し、黙々と床を拭き始めた。僕も、馬場も、見林さんもそれに続いた。

 普段は口の止まらない馬場も、黙ったまま目地を擦っている。僕も思考を止めて、ただ無心に手を動かした。その方が、気持ちを保てた。

 それはきっと皆同じだった。僕たちはまるで床板が剥がれるほど、夢中で雑巾を動かし続けた。

 

 外から、ざわめきが聞こえた。水練を終えた同期たちが戻ってきたのだろう。

 足音が近づき、昼間の下士官が顔を覗かせた。


「俺も忙しい。夕食までは見回りには来ん。……寝すぎるなよ」


 そう言って、下士官は足音を残して去っていった。

 僕らは、そのあと泥のように眠った。

 

 そこからの生活は、亀嶋がいないことを除けば、見かけ上はほとんど変わらなかった。唯一違ったのは、その日は馬場が真面目に勉強をしていたことくらいだ。


 風呂に入り、就寝前の点呼と五省の斉唱を終え、僕が部屋の灯りを消そうとしたその時だった。

 

 扉を叩く音がした。開けると、体育教官の向井大尉が立っていた。

 向井大尉は体操と水泳を担当している。口は悪いが面倒見がよく、生徒たちからは兄貴分のように慕われていた。


 亀嶋の才能に惚れ込んでいて、自主練に付き合う姿を何度も見かけた。

 練習後、プールサイドでサイダーを飲むときには、僕らカナヅチ組にも一本ずつ分けてくれた。

 

「ちょっと、いいか」


 部屋に入った大尉は、亀嶋の椅子に静かに腰を下ろした。あの日のプール当番は教官だったという。

 二十時の見回りの際、プールサイドを懐中電灯でざっと照らし、鍵を閉めた——大尉はそう語った。


「もし俺が、水底までちゃんと見ていたら……亀嶋は助かったかもしれん」


 肩を落とし、膝の上に置かれた手に、ぽたぽたと涙が落ちる。

 

「亀嶋が溺れるなんて、考えたこともなかった。しかも今年からは、泳ぐ前に医務室で健康チェックを受ける決まりになったからな。なおさら大丈夫だと思っていた」


 大尉はうつむいたまま、震える声で続けた。


「……でもやっぱり、何度考えても腑に落ちない。亀嶋が、溺れるわけがない。検死の結果を見せてくれと頼んだが『溺死』としか教えてもらえなかった」


 大尉は立ち上がり僕たちに頭を下げた。


「お前たちに、頼みがある。亀嶋が死んだ理由を調べてくれ。もし本当に事故だったなら、それでいい」

 

「やれる範囲で、努力いたします」


 静かにそう答えたのは見林さんだった。


 教官ですら調べきれないことが、学生、それも謹慎中の僕たちにできるとは思えない。それでも、医師である見林さんだけが、唯一可能性を持っていた。

 向井大尉は見林さんの手を握り、礼を述べると、静かに部屋を後にした。

 

「……じゃあ、電気、消すよ?」 


 僕がスイッチに手を伸ばしかけた時、馬場がそれを止めた。


「一分だけ、待ってくれ」

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