第4話 カメの鉛筆
馬場は亀嶋の机に近づき、本棚を漁った。
「触ると、叱られるよ」
僕は慌てて馬場の手を掴んだ。
「遺品は明日、教官立ち会いのもとで仕分けするって聞いてたよね」
「教官の前じゃ盗れないだろ」
馬場の手には、日記帳が握られていた。
「日記の中に何か手掛かりがあるかもしれん。読んだら、ちゃんとカメの家に送るさ」
馬場の目は真剣だった。
僕は口を開きかけて——やめた。
見たくない。でも、見なければならない。そんな気がした。
見林さんがそっと馬場に近づき、日記帳を取り上げた。
「気持ちは分かるが、歳の近い君らに見せたくない記憶もあるはずだ。私に任せてくれないか」
僕も日記をつけているから、よく分かる。
プールで溺れた日の惨めな気持ち。入学してすぐ馬場に『一万円様』とからかわれて腹が立ったこと。
そんなこと、たとえ仲間でも見られたくはない。
見林さんなら、必要のない秘密はきっと、記憶の引き出しに静かにしまってくれるだろう。
「見回りにばれる前に、消灯するぞ」
下が静かに電灯を落とした。それは言葉の代わりの肯定だった。
昨夜の点呼に続いて今度は本当に、僕らは亀嶋のために——悪巧みの仲間になった。
翌日は、よく眠れたせいか、昨日のような気怠さはなかった。
午前中は講義と同じ内容の自学自習。僕は球面三角法の問題を解きながら、また亀嶋のことを思い出していた。
亀嶋は目が細く、眠たそうな顔つきをしていたが、座学、特に数学の時間は輪をかけて眠たそうに見えた。 後ろの席から、時々椅子を軽く蹴って、起こしてもらっていたっけ。
「中山、ここ分かるか?」
下の声に、僕ははっとして顔を上げた。
「ちょっと待って、ここは……」
僕は慌てて教科書を開き直し、式をたどった。
「ついでに俺にも教えてくれよ!」
いつもなら下に続いて聞こえる亀嶋の声は、当たり前だが聞こえなかった……。
昼食が済み、午後になると立ち会いの下士官がやってきて、亀嶋の荷物がまとめられた。 制服や教科書は実家に届けられ、残った下着や鉛筆、ノートの類は廃棄されるという。
「鉛筆と、ノートを一冊だけ頂けませんか?」
僕がそう言うと、下士官は一瞬黙ってから、ノートの束を手に取り、一冊をぱらぱらとめくった。 それから僕にノートを一冊と、鉛筆を数本手渡してくれた。
下士官が立ち去ったあと、僕たちは無言のまま鉛筆を一本ずつ分け合った。
どれも後ろが少しだけ削られ、そこにひらがなで「かめ」と書いてある。
一本だけ、『ばば』と記名された鉛筆が混ざっていた。
「あの野郎……」
馬場がそうつぶやき、目を伏せた。肩が小さく震えていた。 馬場の頬に涙が伝い落ちるのが見えた。馬場はあれから泣いてばかりだ。
『ばば』と刻まれた短い鉛筆は、なぜか僕の掌に残った。
下士官からもらった亀嶋のノートは数学だった。 亀嶋の眠気はノートの中にもよく表れていた。たびたび睡魔と戦っていたらしく、時折字が乱れ、ページの端には、よだれと思しき跡まであった。
二年次に入り内容が難しくなったせいか、最後の方は字の乱れも激しい。「難しくて解けない」「寝るな」「腹が減りすぎて震える」など、走り書きのような言葉がページの隅に踊っていた。 昼の献立や、学生倶楽部のおやつも落書きしてある。
そして、最後の授業のページを境に、ノートは白紙。
見林さんがそっと近づいてきて、僕の手元を覗き込んだ。
「カメ、数学はよほど退屈だったようですね」
「ちょっと、いいか?」
見林さんは声を潜めて僕に言い、ノートを手に取った。 無言で数ページめくった後、突然手を止めた。
見林さんは、口元を手で覆い、涙を溢れさせた。 嗚咽が、指の隙間から零れ出る。
あんなに取り乱した見林さんを、僕は初めて見た。
「……大丈夫ですか?」
僕は恐る恐る声をかけた。見林さんは小さく頷き「すまんな」と絞り出すように言ったあと、再び声を殺して泣いた。
見林さんが机に戻したノートを、僕ももう一度手に取った。白紙と思っていた部分、授業の板書の数ページ先に、それはあった。
眠気をごまかすために描いたのだろう。雑な線だったが、一目で分かった。
——戦艦に乗っている、僕たちだ。
艦橋、砲塔のシルエット。そして笑顔の五人。砲塔の横で、下は大口を開けて笑い、馬場は得意げに双眼鏡を構えていた。見林さんは医者カバンを手に下げ、僕と亀嶋は肩を組んで手旗を一本ずつ持っていた。
——どれも亀嶋が見てきた僕たちだった。
その瞬間、僕の視界も霞み、声が漏れ出た。 駆け寄ってきた馬場も下も、静かに泣きはじめた。 誰かが廊下を通ったかもしれない。でも、誰も注意をしには来なかった。
空っぽになったカメの机の横には、海軍の標語が貼られたままになっている。
『スマートで、目先が利いて、几帳面、負けじ魂。これぞ船乗り』
見林さんが、それをそっと剥がして自分の机に貼り直した。
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