第2話 水は優しい
「亀嶋を起こしましょうか?」
馬場の自然な演技に、点呼の教官はすっかり騙されていた。亀嶋が毎日、練習に全力を注いでいたことは、学生も教官も皆が知っていた。
「寝かしておいてやれ」
当番の士官は名簿に印をつけると、疑いもせず部屋を出ていった。馬場は勝ち誇ったように、軽く拳を突き上げた。
「まぁ、そろそろ帰ってくるだろうよ」
下が部屋の灯りを落とす。
カーテンの隙間から差し込む月明かりが、膨らんだ布団越しに、亀嶋の不在を浮き彫りにしていた。
僕は目を閉じ、明日の水練を思った。
入学した頃、僕はまるで泳げなかった。入試に水泳の実技はなく、入ってから泳げるようになればいいとたかを括っていた——しかし、それは想像以上に過酷な道だった。
思い出すだけで、胃のあたりがきゅっと縮む。けれど、一年で泳げるようになったのは、紛れもなく亀嶋のお陰だ。
授業が終わると、亀嶋は自主的に、僕は半ば強制でプールに向かった。記録更新に挑む亀嶋の横で、僕はひたすら水に浮く練習をしていた。だが、どうしても身体に力が入ってしまう。気づけば、沈んでいる。
水中にいても、耳に届く「裏口」「一万円様」「カナヅチ」「女々しい」——聞こえるはずのない陰口たち。
たまらず足をつき顔で水面を割ると、次の瞬間、プールサイドから教官の怒声が飛んでくる。
泳げなかった同期は、ひとり、またひとりと魚になった。とうとう最後に残ったカナヅチは……僕だった。
その晩、僕に亀嶋が声をかけてきた。
五人分の布団をかき集め、ベッドの上に積み上げた亀嶋は、僕に「ここに寝てみろ」と指差した。
まずは仰向けで。次はうつ伏せで。プールの疲れもあって、僕の身体からじわじわと力が抜けていく。重ねられた布団の柔らかさが、波に浮かぶ感覚に似ていた。
「中山、今の感じだよ」
その翌日、僕は初めて、水に浮けた。
それからは、簡単とは言えなかったけれど、どうにかはなった。初めて二十五メートルを泳ぎ切った日、なぜかゴールに、亀嶋がいた。
僕は息を切らしながら、差し出された手を握った。
「水は、優しいだろ」
亀嶋が白い歯を見せて笑う。
「カメにとっては、そうだろうけどな」
僕も、つられて笑った。
明日は海での訓練だ。波に飲まれない方法を、亀嶋に聞いておこう。
僕は寝返りをうつ。亀嶋のベッドは、まだ空のままだ。
点呼から三十分が過ぎた頃、見林さんが静かに電灯をつけた。なぜか制服に袖を通している。
「心配になったから、宿直室に報告してくるよ」
見林さんが起きたのは、たぶん僕らを庇うためだ。一連托生とはいえ、主犯は馬場だ。それなのに見林さんが行くのは、やはり中尉だから。たとえ『学生扱い』だったとしても。
消灯して、見林さんが帰ってくるのを待っているうちに、僕はうとうとしはじめた。遠くから廊下を歩く足音が聞こえてくる。
「カメ、おかえり!」
僕は身体を起こした。だが、入り口に立っていたのは——亀嶋でも、見林さんでもなく怒気に震える教官だった。なぜかズボンの裾がぐっしょりと濡れている。
「全員、整列!」
教官の声が部屋を切り裂いた。馬場も下も、そしてもちろん僕も、反射的にベッドから跳ね起きた。
僕たちは寝間着のまま廊下に一列に並ばされた。暗闇に慣れた目には、天井の電灯が焼きつくように眩しい。だが、顔をしかめることすら許されない張りつめた空気が、そこにはあった。
「なぜ、点呼を誤魔化した!」
馬場が一歩前に出て、敬礼をした。
「亀嶋がすぐに戻ると思ったからであります」
教官の靴先が、馬場の脛を蹴り上げた。馬場は声を上げず、ただ堪えている。
「歯を食いしばれ!」
下が平手で打たれる乾いた音が廊下に響いた。
そして教官が、僕の前に立った。 平手が頬に飛んでくる。痺れるほどの痛みに、目の奥が熱くなる。涙で前が霞んだ。
教官は一瞬黙り、僕たちひとりひとりをしっかり見た後、口を開いた。
「亀嶋生徒は、プールで死んでいた。……貴様らが点呼を誤魔化さなければ、助かったかもしれん」
その言葉は、打たれた頬より何倍も痛かった。馬場が呆然とした顔をした後、耐えきれずに嗚咽を漏らした。
「処分は明日朝だ。それまで、ここで立っていろ」
これが夢ならどんなに良いだろう。けれど、それから眠りは訪れず、僕たちは立ったまま起床の
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます