第3話 デート
雨の日の神社での出来事が、私たちの関係を新しくつくり変えていた。
躊躇いも罪悪感も、もうどこか遠い世界の言葉になっていた。陽菜子の隣りを歩く私は、もう以前の私ではない。私たちは、秘密と罪と、そして何よりも強い愛情を共有する、お互いにたったひとりの恋人になったのだ。
告白の次の週、嘘のように晴れた休日に、私たちは二人で並んでバスに揺られていた。前の日まで降り続いていた雨も上がって、ふたりのデートを祝福してくれている。隣りに座る陽菜子と、シートの下でこっそりと指を絡め合う。触れた指先の熱が、私を現実の人間としてこの世界に繋ぎ止めてくれていた。
「なんか、変な感じだね」
私が小声で言うと、陽菜子は「何が?」と悪戯っぽく笑う。
「こうして、陽菜子が私の恋人なんだって思うと。まだ夢みたいで」
「私もだよ。聖奈が私の彼女。…うん、悪くない。ていうか、最高」
陽菜子はそう言うと、私の肩に頭を乗せてくる。シャンプーの甘い香りと、彼女の体温が私を包む。周りの乗客の目には、私たちはどう映っているのだろう。ただの仲の良い友だちか、それとも。どちらでもよかった。この世界の誰にも、私たちの本当の関係なんて理解できないのだから。
陽菜子は真っ白なノースリーブのワンピース。風が吹くたびに、軽やかな裾がふわりと揺れる。足もとは素足につま先が鋭く尖った、黒いポインテッドトゥのエナメルのバレエシューズ。高校に入ってから、私が陽菜子の誕生日にプレゼントしたものだった。フラットな靴底には、滑り止めのための細かな幾何学模様がびっしりと刻まれている。
私は、陽菜子が見立ててくれた淡いブルーのシフォンスカートに、白いレースのブラウス。靴は少しだけヒールのある、光沢の美しい白いエナメルパンプス。
お互いを選び、お互いに選ばれた。その事実が、たまらなく誇らしかった。
公園に着くと、私たちはまず、テラス席のあるカフェでお茶をした。木漏れ日の下、私のクリームソーダに乗っていたさくらんぼを、陽菜子から「聖奈、あーん」と言って食べさせてもらう。その、どこにでもある恋人同士の光景を演じながら、私たちの間には、以前とはまったく違う、熱を帯びた緊張感と、恋人だけが分かち合える甘い高揚感が漂っていた。
近くの席で談笑するカップルを見て、私が「私たちも、あんな風に見えてるのかな」と呟くと、陽菜子は私の耳元で囁いた。
「ううん、私たちの方がもっと特別だよ。だって、秘密があるもんね」
その言葉が、私の心の鍵を開ける。
公園の奥、観光客向けの遊歩道から外れた、木々が鬱蒼と茂る緑道へと足を踏み入れたときだった。陽菜子がふと立ち止まり、私の手を取った。
「ねえ、聖奈」
彼女は、悪戯っぽく微笑む。
「探そっか」
その一言が私たちのデートを、特別な「狩り」へと変える合図。何を?なんて尋ねる必要もないことだった。
手を繋ぎながら、私たちは森の奥へと進んでいく。恋人同士の甘い散策のように見せかけて、その実、私たちの目は獲物を探して絶えず地面を探し続けていた。この倒錯した状況がたまらなく刺激的だった。陽菜子と私だけが、この世界の本当の姿を知っているような、全能感にも似た感覚。
最初に見つけたのは、陽菜子だった。
「あ、いた」
彼女が指さす先、湿った土の上に、雨上がりの恩恵を受けたのだろう、大きなカタツムリがのそりのそりと這っていた。渦を巻いた殻が、鈍い光を放っている。
「見てて、聖奈。私の、聖奈への『好き』の形、見せてあげる」
陽菜子は囁くと、履いている黒いバレエシューズの、鋭く尖ったつま先を、静かに持ち上げた。そして、狙いを定め、カタツムリの殻の、ちょうど中心へと、ピンポイントに振り下ろす。
べきっ。
乾いた、小気味良い音がした。綺麗にひび割れた殻の下から、ぬらりとした粘液質の本体が姿を現す。陽菜子は、さらにぐりっと体重をかけて、靴底全体で踏みしめた。フラットな靴底に刻まれた幾何学模様の凹凸が、カタツムリの柔らかい肉体にめり込み、それを不定形なミンチへと変えていく。
彼女は、ゆっくりと足を上げた。
「見て」
陽菜子は、私に自分の靴底を見せる。
「靴底のギザギザに、殻の欠片が挟まってる。…あは、なんか模様みたいで綺麗。中の子は、思ったより柔らかいんだね。足の裏に、ぐにゅって感触がずっと残ってる。聖奈にも、この感じあげたいな」
彼女は、自分の感覚を確かめるように、そして私に共有するように、うっとりと語る。その横顔の美しさに、私は目まいがしそうだった。陽菜子に愛されている。その実感が背徳的な光景と相まって、私の全身を駆け巡った。
「私の『好き』も、陽菜子に見せたい」
今度は、私からだった。陽菜子に認められたい。彼女と同じ世界に立ちたい。その一心で、私は自ら獲物を探す。
少し先、木の根元に、地面に落ちて力なく鳴いている蝉がいた。ジジ、ジジ、と断末魔のような羽音を立てている。あの日のカエルとは違う。もっと大きく、もっと硬そうで、そして、激しく抵抗している。
「陽菜子、見てて」
私は、陽菜子に向かって宣言する。
白いエナメルパンプスの、高すぎない、しかし確かな硬さを持つヒールを、蝉の硬い胴体を目がけて少しずつ下ろしていく。まだ少しだけ躊躇いがあった。でも、隣りで私を見つめる陽菜子の期待した瞳を見て、私は最後の理性を振り切った。
ジジジジ!
靴底を通して、セミの最後の抵抗が、激しい振動となって足首を駆け上がってくる。体重を載せていくと、それはすぐにぷつりと途絶えた。命が消える瞬間の絶対的な静寂。
私は、おそるおそる足を上げた。自分のパンプスの裏を見る。ヒールの根本あたりに、潰れた蝉の体液と、茶色い身体の破片が、無惨にこびりついていた。
「……すごい」
呆然と、声が漏れた。
「陽菜子の言ってた通り、すごい震えてた。これが命がなくなるときの音なんだね……」
あまりに生々しい感覚に、私の体は興奮で打ち震えていた。
「うん、すごく良かったよ、聖奈」
いつの間にか隣りに来ていた陽菜子が、私を後ろから強く抱きしめた。
「いまの聖奈、すっごく綺麗だった。私の、自慢の彼女だ」
耳元で囁かれた言葉が、私のすべてを肯定してくれる。私たちはもう引き返せない。そして引き返すつもりもなかった。
陽菜子の腕の中で、私は自分の心臓が大きく脈打つのを感じていた。耳元で囁かれた「私の、自慢の彼女だ」という言葉が、甘い呪いのように私の全身に染み渡っていく。肯定される喜び。愛される実感。それらがさっきまで私の足裏にあったはずの、命の最後の抵抗の記憶を、恍惚とした達成感へと塗り替えていった。
「ねえ、聖奈」
陽菜子は、私を抱きしめたまま、楽しそうに笑った。
「もっとやろっか。どっちがたくさん見つけられるか、競争」
その提案は、あまりに無邪気で、残酷で、そして抗いがたいほどに魅力的だった。陽菜子に褒められた高揚感で、私の心は完全に麻痺していたのかもしれない。私は残酷な笑みを浮かべて、こくりと頷いた。
そこからの時間は、まるで夢の中にいるようだった。
私たちの「狩り」は、神聖な儀式から、無邪気な遊戯へとその姿を変えた。私たちは手を繋いだまま、ときには離れて、草むらをかき分け、木の根元を覗き込み、獲物を探して森の中を駆け回った。少女らしいきゃっきゃという笑い声と、その足もとで響く、ぶちっ、ぐちゃっという小さな破壊の音。その恐ろしいほどの不協和音に、私たちはまったく気付いていなかった。
「いた!」
私が声を上げ、白いパンプスで踏みつけたのは、鮮やかな緑色のカマキリだった。べちゃっという軽い音と共に、カマキリのおなかから弾けた臓物が、私の真っ白なエナメルパンプスに、点々と小さな跡を残した。
「陽菜子!私、見つけたよ!」
「やるじゃん、聖奈! こっちはもっとすごいのいたよ」
陽菜子が見つけたのは、雨上がりの地面を這う、黒くて大きなミミズだった。彼女は黒いバレエシューズで、その長い身体の踏みごたえを楽しむように、何度も何度も容赦なく踏みつけた。ぐちゃっ、べちゃっという湿った感触が、見ているこちらにまで伝わってくるようだ。ねじれて引きちぎられて、ひくつき、やがてただの土のようなものへと変わっていく様を、陽菜子は飽きもせずに眺めている。
「なんか、全部なくしちゃいたくなるとき、ない?」
陽菜子は、息を弾ませながら言った。
「形がなくなるまで。そうしたら、本当に私のものになった気がして」
その言葉の意味が、いまの私には痛いほどよくわかる。
ひとしきり「競争」を楽しんだ後、私たちは木陰のベンチに座り込み、少し汗ばんだまま寄り添った。夏の午後の気怠い空気。新緑の匂い。私たちの周りには、穏やかな時間が流れている。足もとで、ついさっきまでいくつもの命が失われたことなど、まるで嘘のように。
「聖奈、さっきのカマキリ、踏むときちょっと躊躇わなかった? かわいかったもんね」
陽菜子が私の心を見透かしたように、くすくす笑いながら言う。
「う、うん…でも、陽菜子が見てるって思ったら、できた。陽菜子の方こそ、ミミズ、すごかったね。ぐちゃぐちゃになるまで…」
「うん。なんかね、気持ちよかった。聖奈が好きだって言ってくれるからかな。前はひとりでこっそりやったりして、ちょっとだけ罪悪感があったけど、いまは全然。むしろ、もっと聖奈に見せたいって思う」
「わかる…。陽菜子が好きって言ってくれるなら、私、なんだってできる気がする。もっとひどいことだって…」
「ひどいことじゃないよ」
陽菜子は、私の言葉を遮るように、きっぱりと言った。
「これは私たちの『好き』の形。誰にも真似できない、私たちだけの愛情表現だよ」
陽菜子は、私の白いパンプスの側面についた、カマキリの体液と草の汁が混じった緑色のシミを優しく見つめる。
「聖奈のがんばった印だね。綺麗だよ」
その囁きは、どんな愛の言葉よりも、私の心を溶かした。
私も、彼女の黒いバレエシューズの先端についた、カタツムリの殻の白い欠片を愛しげに見つめる。
「陽菜子の『好き』の印」
そう返すと、私たちは顔を見合わせて、小さく笑った。互いの靴についた汚れは、私たちの愛の証だった。それは誰にも理解されない、二人だけの勲章なのだった。
そして、私たちはどちらからともなく顔を寄せ、唇を重ねた。
残酷な行為の後のキスは、以前よりもずっと甘くて背徳的な味がした。陽菜子の舌が、私のそれを探し当てて、優しく絡みついてくる。汗の塩辛さ、互いの息遣い、そしてどこか鉄錆のような生命の残り香。そのすべてが混じり合った、これまででもっとも深く甘いキス。私たちは互いの存在を確かめるように、いつまでも唇を離さなかった。
私たちはたぶんもう普通には戻れない。でもそれでいい。
陽菜子と一緒に、この秘密の庭で生きていけるなら、他に何もいらない。
帰り道、夕暮れの赤い光が、私たちの顔を照らしていた。私たちは手をつなぎ、今日の「デート」の感想を、小声で楽しげに話し合う。
「今日の、カタツムリのぱきって音、すごく良かったね」
「セミの震えているのも、すごかったよ。今度、もっと大きいので試してみたい」
「私のパンプス、ちょっと汚れちゃった」
「ふふっ。それ、私たちの勲章だから。洗っちゃダメだよ」
陽菜子はそう言うと、悪戯っぽく笑った。
バス停へと向かう道すがら、私は幸せの絶頂にいた。私のすべてを肯定し、受け入れてくれる、たったひとりの恋人。その彼女の手の温もりを感じながら、私は思う。
「次のデートは何踏もうか」
「もっと、すごいのがいいよね」
私たちの倒錯的な探求は、まだ始まったばかりだ。
汚れた靴底を隠すように、私たちは人混みの中へと紛れていく。手をつなぐ強さだけが、私たち二人がこの世界で唯一の、お互いの理解者であることを示していた。
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