第4話 二人の世界

 朝、目を覚ますと、隣りに見馴れた陽菜子の寝顔がある。昨夜は、私の部屋に泊まっていったのだ。規則正しい寝息を立てる、その少しだけ開いた唇。朝陽を浴びてキラキラと輝く、ストレートな茶髪。そのすべてが私のものなのだと思うと、まだ夢の中にいるような現実感のない幸福に包まれてしまう。


「陽菜子、朝だよ。起きないと、学校遅刻しちゃうよ」

 肩を揺すると、陽菜子は「んー、あと五分…」と寝返りを打って、私のパジャマの裾をぎゅっと掴んだ。

「もう、しょうがないなあ」

「……聖奈がキスしてくれたら起きる」

 寝ぼけ声でそんなことを要求する恋人に、私は苦笑しながら、そのおでこにそっと唇を寄せた。陽菜子は満足そうに目を細め、「おはよ、聖奈」とようやく体を起こす。


 二人で制服に着替える。陽菜子が私の青いスカーフを結んでくれて、私が陽菜子のポニーテールを整えてあげる。食卓につけば、母が「陽菜ちゃん、よく眠れた? 朝ごはん、いっぱい食べてね」と、当たり前のように味噌汁を差し出す。母の目には、私たちは「片時も離れられない、大親友」と映っているのだろう。そのほんの少しのズレが、たまらなく刺激的だった。


 学校での時間も、二人の秘密の輝きで満たされている。

 授業中、机の下でこっそりと指を絡め合う。教科書に線を引くふりをしながら、互いの指先を、ほんの数ミリ触れ合わせる。そのたびに、電気が走るようなかすかな痺れが、背筋を駆け上った。

 昼休み、おべんとうのおかずを交換するふりをして、陽菜子が私の卵焼きを「あーん」とねだる。私が食べさせてあげると、今度は陽菜子が私の膝を枕にして、猫のように丸くなって昼寝を始める。クラスメイトが「五十嵐さん、水野さんのこと好きすぎでしょ」と笑いながら通り過ぎていく。私は「そうみたい」と微笑みで返しながら、陽菜子の髪をそっと撫でた。この無防備な寝顔を独り占めできるのは、この世界で私だけなのだという、甘い優越感に浸りながら。

 その日の放課後も、私たちは二人だけの楽しい遊びを終えて、家路についていた。神社の裏手、大きな楠の下。今日はそこで、素早く動く艶やかなトカゲを見つけたのだ。陽菜子がローファーを履いたつま先で追い詰め、私が真上からかかとでとどめを刺した、完璧な連携だった。


「陽菜子、今日のトカゲ、しっぽが切れてびっくりしたね。切れた後もずっと動いてて」

 私が言うと、隣りを歩く陽菜子は「うん」と楽しそうに頷いた。

「でも、最後はちゃんと追い詰めて殺せたから。聖奈、最近すごく上手になったよね。前みたいに躊躇わなくなった。私のこと、ちゃんと見てるってわかるよ」

「陽菜子にもっと褒めてもらいたいから。陽菜子のためなら、なんでもできる」

「知ってる」

 陽菜子はそう言って、私の手をぎゅっと握った。


 夕焼けに染まるあぜ道を、私たちは制服姿で歩く。

「私のローファー、もう結構汚れてきちゃったな」

 私は自分の足もとに目を落とす。あの雨の日からずっと履いている、陽菜子とお揃いの黒いエナメルのローファー。最近は二人とも雨の日以外でも普通に履くようになっていた。丁寧に磨いたりして手入れはしているけれど、よく見れば、つま先のあたりには無数の細かな傷がつき、靴底の縁には、拭いきれない土や草の染みが、記憶のようにこびりついている。


「いいじゃん、それが聖奈の戦いの記録だよ」

 陽菜子はそう言うと、不意に私の前でしゃがみこんだ。

「え、陽菜子?」

「私がこの靴、綺麗にしてあげる。聖奈のがんばった証だから、丁寧にね」


 彼女は自分の制服のポケットから取り出したハンカチで、私の靴のつま先についた土埃を優しく拭い始めた。その献身的な愛情表現に、私は慌てて彼女の腕を掴む。

「いいよ、そんな! ハンカチ汚れちゃう」

「これくらい平気。だって、聖奈の靴だもん」

 陽菜子は顔を上げて、私に微笑む。その瞳は、心からの愛情で満たされていた。私は胸がいっぱいになり、それ以上何も言えなくなる。陽菜子は、私の靴を綺麗に拭き終えると、満足そうに立ち上がった。


「うん、綺麗になった。まあ、私たちの勲章だけどね」

「……ありがとう、陽菜子!愛してる!」

 そんな私を陽菜子が優しく見つめる。

「ねえ、聖奈。高校卒業したら、一緒に暮らそうか」

 陽菜子が唐突に、しかし当たり前のことのように言った。

「うん、暮らしたい。二人だけの家で、誰にも邪魔されずに」

「どんな部屋がいいかな。日当たりのいい部屋がいいね。ベランダでハーブとか育てたい」

「ふふっ。陽菜子はすぐ枯らしそう」

「ひどい! でも聖奈がお世話してくれるからいいや」

 私たちは、他愛ない空想を語り合いながら、笑い合った。その未来が、必ずやってくると、疑いもしなかった。

 不意に、陽菜子の表情が真顔になる。

「でもさ、本当にいいの? 私とずっと一緒で。聖奈なら、普通の男の子と付き合って、普通に結婚して、普通の幸せを手に入れられるのに」

 それは、私を試すような、あるいは彼女自身のわずかな不安を吐露するような、問いだった。

 私は、陽菜子の手を強く握り返し、迷いなく答える。

「普通の幸せなんていらない。私が欲しいのは、陽菜子と一緒にいるこの世界だけだよ。陽菜子がいない幸せなんて、私にとっては不幸と同じだから」

 その言葉を耳にして、陽菜子は心の底から安堵したように、ふわりと微笑んだ。

 私たちは夕陽を背に、影を長く伸ばしながら歩く。この幸せが、永遠に続けばいいのに。私は強くそう願った。陽菜子がいる。ただそれだけで、私の世界は完璧に満たされていた。


 その、完璧な幸福感の只中で、不意に世界の裂け目から現れるように。

 道の脇にある古い農家の納屋の影から、灰色の小さな塊が、ちょろちょろと私たちの目の前に飛び出してきた。


 それは、ネズミだった。

 これまで私たちが踏みつけの対象としてきた、虫やカエルとはまったく違う、温かい血の通った、私たちと同じ哺乳類。夕陽を浴びて、その柔らかな毛並みは銀色に輝き、黒くつぶらな瞳が、まるで何かを理解しているかのように、じっと私たちを見つめている。ぴくっと小さく震えるヒゲの先まで、あまりに精巧な生命の塊。

 ネズミは、一瞬の逡巡の後、くるりと向きを変えて逃げようとした。その瞬間、陽菜子が動いた。まるでしなやかな猫のように、一歩踏み出すと、履いている黒いエナメルのローファーのつま先で、ネズミの細長い尻尾の先を、アスファルトの上にぱしっと縫い付ける。


「キィッ!」


 甲高い悲鳴を上げ、ネズミは必死に身もだえする。しかし陽菜子の靴は微動だにしない。

「見て、聖奈」

 陽菜子の声は、恍惚とした響きで震えていた。

「こんな私たちの前に出てくるなんて、本当にバカなネズミ。自分の運命もわかってないんだ」

「うん、バカな子」

 私も、うっとりとその光景を見つめながら応えた。

「でも、私たちの永遠の誓いのために死ねるんだから幸せだよ。運命を教えてあげなきゃね」


 そうだ。これは、偶然ではない。これは、運命だ。

 神様が、私たちの愛が本物かどうかを試す、最後の試練として。あるいは私たちの世界の完成を祝う、最高の生贄として、この小さな命を遣わしてくれたのだ。

 そう思うと、陽菜子の靴の下で必死にもがくネズミが、最高の獲物に見えてきた。


「一緒に、やろっか」

 陽菜子が、私の目を見て囁く。その瞳は赤い夕陽を反射して、見たこともないほど妖しく、そして美しく燃えていた。

「二人で、ひとつに」

 私は言葉もなく、ただこくりと頷いた。

 もう私たちを止めるものは、この世界のどこにもなかった。

 陽菜子は、私の前に立つと、ゆっくりと両腕を広げた。そして、壊れ物を扱うように、それでいて、二度と離さないという固い意志を込めて、私を強く強く抱きしめた。

 制服の薄い生地を通して、互いの心臓の鼓動が、とくんとくんと一つのリズムになって重なっていくのを感じる。陽菜子の身体の熱が、私の身体に伝わり、溶け合っていく。


「怖い? 聖奈」

 耳元で、陽菜子の甘い声がした。

「怖くない。陽菜子と一緒なら。でも…ドキドキして、おかしくなりそう。心臓が破裂しちゃいそうだよ」

「私もだよ」

 陽菜子は、私の背中に回した手に、ぐっと力を込めた。

「見て。手が震えてる。

 でもね、これは武者震いってやつ。最高の瞬間のほんの少し手前。

 ねえ、聖奈。私たちの愛って、どんな味がするんだろうね」


 その言葉を合図に、陽菜子は私の唇を塞いだ。

 最初は鳥が羽を触れ合わせるような、優しいキス。しかし、すぐにそれは互いのすべてを確かめ合うような、深く貪るようなキスへと変わっていった。陽菜子の舌が私の唇をこじ開けて侵入し、私の舌を探し当てて、激しく絡みついてくる。息ができない。思考が陽菜子から与えられる快感で溶けていく。


 キスを交わしながら、陽菜子の震える手が、私のセーラー服の青いスカーフを緩めていく。ふっと陽菜子の唇が離れ、その下にある無防備な首筋に舌を這わせてくる。熱い吐息が私の肌を絶え間なく刺激する。


「聖奈の匂い……好き……」


 陽菜子の指は、私のセーラー服のボタンの隙間から滑り込み、素肌の感触を確かめるように、ゆっくりと、しかし大胆に這い回る。その刺激に、私の体はびくんと大きく跳ねた。私もまた陽菜子の背中に手を回し、そのしなやかな体のラインを、制服の上から強く強くなぞった。スカートの裾から、その奥にある柔らかな太ももへ指を滑り込ませたいという、抗いがたい衝動に駆られる。

 私たちは、足もとでもがくネズミから目を離さない。唇と指先と、身体全体で互いの存在を求め合いながらも、私たちの視線は目の前の小さな獲物に釘付けになっていた。精神も肉体も極限まで研ぎ澄まされ、興奮が高まっていく。


「私たち、ずっと一緒だよ」

 キスの合間に陽菜子が囁く。その声は熱に浮かされたように掠れていた。


「この先、何があっても。どんなことがあっても離れない。このバカで弱々しい命が、私たちの永遠の誓いの証人になってくれる」

「うん……うん、陽菜子…」


 私はもう、まともな言葉を返すことができなかった。ただ陽菜子の名前を呼ぶことしかできない。それが私の同意であり、誓いの言葉だった。


 陽菜子は、私の顎に手を添え、顔を少しだけ離した。互いの唇は唾液で濡れ、きらきらと光っている。私たちは互いの目の前で見つめ合った。その瞳に映るのは、欲望と愛情とそして狂気の色。


「今だよ、聖奈」


 陽菜子が合図を送る。

 私たちは、抱き合い、唇が触れ合うか触れ合わないかの距離を保ったまま、タイミングを合わせた。

 陽菜子はしっぽを踏みつけた足と反対の右足を、私は左足を、まるでスローモーションのようにゆっくりと持ち上げる。

 沈みかけている夕陽を浴びて、私たちのお揃いの黒いエナメルローファーが、眩しい光を放っている。

 靴底が、ネズミの柔らかな毛皮に触れた。伝わってくる小さな身体の柔らかさ。生きているという感触。

 私たちは見つめ合ったまま、互いの瞳の奥に、これから起こるであろうすべてを映し出しながら、ゆっくりとゆっくりと体重をかけていく。


 みしっ

 ぱきっ


 最初に小さな小さな、それでも耳に響くはっきりとした音がした。肋骨が私たちの重みに耐えきれず、軋んでへし折れる音だ。ネズミの身体が激しく痙攣するのが、足の裏に伝わってくる。声にならない悲鳴が私の脳内に直接響き渡るような気がした。


 陽菜子が私の腰をさらに強く引き寄せた。

「もっと、聖奈。もっと、ひとつに」

 私たちは最後の躊躇いを振り払うように、全体重を、足の裏のつま先一点に集中させた。


 べきっ…ばきっ!


 硬い頭蓋骨が砕ける、決定的な音。

 ぐちゅりという湿った感触とともに、柔らかな肉が破れ、温かい血液が、粘り気のある内臓が、辺りに迸る。その生々しい粘ついた液体が、私たちのローファーと真っ白なソックスを、瞬く間に赤黒く汚していく。

 足の裏に広がる、ぐちゃぐちゃになった、命だったものの感触。鼻腔を突き刺す、むせ返るような血の鉄錆びた匂い。足を踏み換えるたびに、靴底のギザギザしたパターンが、ネズミの柔らかい肉と脆い骨を捉え、引き裂き、こね上げていく。

 その瞬間、陽菜子は獣のような唸り声を上げて、私の唇に再び噛みつかんばかりのキスをした。

 私もそれに応える。

 破壊のクライマックスと同時に、私たちの興奮は制御不能のまま頂点へと達した。

 世界が、白く点滅する。

 死と、生が、快感が、暴力が、愛が、ぐちゃぐちゃに混ざり合う、宇宙の始まりみたいな瞬間。

 頭の芯が痺れ、思考が停止し、身体中の力が抜けていく。

 陽菜子の腕の中で、私は生まれて初めての絶頂を迎えていた。

 陽菜子と完全にひとつになれた。そう確信した瞬間だった。


 どれくらいの時間が経ったのだろう。

 私たちは抱き合ったまま、動けずにいた。互いの荒い息遣いだけが、夕暮れの静寂の中に響いている。足の下にはまだぐちゃりとした感触が残っていた。


 ゆっくりと、本当にゆっくりと、私たちは足を上げた。そこにはもう、ネズミだったものの形はなかった。

 赤黒い肉片と、白い骨の欠片、濡れた毛皮が混じり合った名状しがたいミンチとなり、アスファルトの上に無惨な塊となって貼り付いている。


「あはっ」

 陽菜子が、乾いた声で笑った。

「本当にバカなやつ。さっきまでのネズミの形、どこにいったんだろうね」

「もうただの汚いゴミだね」

 私も、うっとりとその光景を見つめながら答えた。


 陽菜子はゆっくりと私から身体を離すと、自分のローファーの血で汚れたつま先で、私の靴についた血糊を、そっと拭うような仕草をした。

「これで、お揃いだね」

 彼女は、とろけるような声で言った。

「私たちの、血の契約の印」


 私たちは静寂の中で、しばらく呆然と立ち尽くしていた。

 陽菜子が、ふと、虚空を見つめて呟いた。


「ねえ、聖奈。私たちって、これからどうなるのかな」

 あまりに強烈な儀式の後だからこそ、その言葉は運命そのものへの問いかけのように、切実に重く響いた。

「どうって?」

「ううん、なんでもない。ただ、こうして聖奈といたら、世界の他のもの全部どうでもよくなってきちゃった。学校とか、勉強とか、将来のこととか。聖奈さえいればそれでいいやって、本気で思うんだ」

「私もだよ、陽菜子」

 私は、陽菜子の汗ばんだ指先を、自分の指に絡めた。

「陽菜子がいない世界なんて想像もできない。私には陽菜子だけだから。陽菜子がいてくれるなら、他には何もいらない」

「…うん。だから、これからもずっと一緒にいてね。何があっても」

「当たり前でしょ」

 私は迷いなく答える。その言葉はもはや単なる返事ではなかった。永遠の運命共同体としての、揺るぎない誓いの言葉だった。

「私たちは、ひとつなんだから」


 その言葉に、陽菜子はこれまでで一番幸せそうな顔で、ふわりと微笑んだ。

 私たちは再び手をつなぎ、夕闇が迫る道を歩き出す。

 陽菜子のローファーの裏には、今日の夕暮れの、温かい赤色がこびりついている。私の靴も。これはもう決して洗い流すことのできない、私たちの愛の証だ。私たちの心は出会ったころよりもずっと、澄み切っているような気がした。


 誰にも理解されない秘密。

 残酷で倒錯していて、しかし二人にとっては至上の愛の形。

 山あいの町の少し騒がしかった二人の夏は、こうして終わっていく。そして私たちの、二人だけの完璧な世界がいま静かに始まったのだ。

 ひぐらしの鳴き声だけがまるで祝福の鐘のように、遠ざかる二人の後からいつまでもいつまでも響き渡っていた。

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