第2話 告白

 あの雨の日の放課後から、私の世界は少しだけその色合いを変えていた。

 ゴキブリを踏み潰した陽菜子の上履きの靴底が、私の網膜の裏側に神聖な紋章のように焼き付いてしまっている。つい昨日の出来事だ。まだ生々しい記憶が、授業中も休み時間も、ふとした瞬間に蘇っては私の思考を中断させた。

 陽菜子は、何も変わらない。

 私の隣りの席で、相変わらず退屈そうにペンを回している。ときどき窓の外を眺めて、小さなあくびをする。そのすべてが、昨日までと同じ見慣れた光景のはずだった。なのにいまの私には、彼女の何気ない仕草のひとつひとつが、あの教室での冷徹な行為と地続きにあるように見えてならなかった。


「聖奈、寝不足? 目の下、ちょっとクマができてるよ」

 昼休み、おべんとうの卵焼きを私の箸から奪いながら、陽菜子が心配そうに私の顔を覗き込む。私はどきりとして、咄嗟に視線を逸らしてしまう。

「う、うん。昨日、ちょっと夜更かししちゃって」

「ふーん。あんま無理しないでよ。聖奈が元気ないと、私、調子狂うんだからね」

 陽菜子はそう言って、私の頭をわしゃわしゃと撫でた。その、いつも通りの優しいスキンシップが、今はガラスの破片のように私の心をちくちくと刺す。あなたは知らない。あなたの友だちが、あなたの残酷さに興奮するような、どうしようもない人間に成り下がってしまったことを。



 その日から、私の内側では、日に日に何かが限界まで膨れ上がっていくようだった。

 ある日の放課後は、図書室で過ごした。ずらりと並んだ分厚い本の森に取り囲まれて、私たちは隣り合って課題のレポートに取り組む。しかし私の目は参考書の文字を追うことができず、いつの間にか、机の下で組まれた陽菜子の足もとを盗み見ていた。白い上履き。そのギザギザした靴底の凹凸が、ゴキブリを容赦なく磨り潰したのだ。そう思うだけで指先が冷たくなり、同時に身体の芯がじわりと熱くなる。

「ねえ、私の足がどうかした?」

 陽菜子の声にはっと我に返ると、彼女が不思議そうな顔で私を見ていた。私は慌てて「なんでもない!」と首を振り、心臓が早鐘を打つのをごまかすように、意味もなくページをめくった。

 またある日の帰り道には、いつもの駄菓子屋に寄った。ぎしぎしと音を立てる木製のベンチに並んで腰かけ、二人で分け合うソーダ味のアイスキャンディー。

「ねえ、聖奈はさ、私のだからね」

 アイスを飲み込んだ陽菜子が、唐突に言った。

「他の子とばっか話してたら、やきもち妬くからね」

 冗談めかした口調。でもその瞳の奥には、笑っていない光が宿っていた。その独占欲が嬉しくて、誇らしくて、でも同時に、私は自分の倒錯した欲望との途方もない断絶に、目眩がしそうになる。


 夜、自分の部屋のベッドの上で、私は何度もスマホの画面とにらめっこをした。陽菜子とのトーク画面を開き、『好き』と打つ。そして消す。『大事な話があるの』と打っては、また消す。この気持ちをどうしたらいいのか、わからない。伝えたい。でも、怖い。相反する感情が、私の中で飽和していく。陽菜子からもらった、お揃いの猫のキーホルダーが、机の上で答えの出ない問いを投げかけているようだった。



 そして、ゴキブリの事件から数日後、再び雨が降った。もうすぐ梅雨も終わりのはず。

 朝から降りしきる雨は、私の心模様を映し出すかのように、一日中その勢いを緩めなかった。もう、偽りの自分で陽菜子の隣りにいることに、限界を感じていた。彼女の無垢な笑顔を見るたびに、胸の奥が罪悪感で軋むのだ。

 放課後、六時間目の終わりのチャイムが鳴る。

「聖奈、一緒に帰ろ」

 しばらくいつものように駄弁った後、陽菜子がいつもと同じ声で、いつもと同じように私を誘う。その「いつも通り」が、私の張り詰めていた心の糸をぷつりと断ち切った。

 もう無理だ。何かが変わらなければ、私は壊れてしまう。

 私は自分でも驚くほど静かな落ち着いた声で「うん」と頷いた。



 昇降口で、私たちは雨の日用にお揃いで買った、黒いエナメルのローファーに履き替える。光沢のある黒が、薄暗い昇降口でぬめりとした光を放っていた。高校に入ったころ、この靴を一緒に買いに行った日の陽菜子のはしゃいだ笑顔を、今でもはっきりと覚えている。

 私たちは同じ水玉模様の傘を並べて差し、校門を出た。ザーザーとという雨音が世界中の他の音をすべてかき消し、私たちの周りだけが、切り取られた別の空間になったかのようだ。遠くからゴロゴロというかすかな雷の音。

 湿った空気、濡れたアスファルトの匂い、傘を叩く激しい雨粒の感触。私の五感は、極限まで研ぎ澄まされていた。

 雨足は、まるで私たちの背中を押すかのように、さらに強くなる。


「うわ、もう無理! びしょ濡れだよ!」

 陽菜子が叫ぶように言った。

「あ、あそこの神社! あそこで雨宿りしよ! 行こ、聖奈!」


 陽菜子は降りしきる雨から逃れようと、私の手首を強く掴んだ。そして引かれるままにひとつになって、私たちは走り出す。水たまりが、私たちの足もとで派手な水飛沫を上げた。黒いエナメルのローファーが泥を蹴散らす。

 息を切らしながら、私たちは古びた神社の鳥居をくぐり、苔むした石段を駆け上がった。一段、また一段と、心臓の鼓動が速くなっていく。陽菜子の手は温かい。でも私の決意は冷たく、固まっていた。

 目指す先は、境内にある神社の本殿。そこは偶然に用意された、二人だけの舞台だった。

 雨音から守られた静かな空間にたどり着いたとき、私はこの想いをすべて打ち明けよう。それで、私たちの関係が終わってしまっても、もう構わない。

 神社の屋根が見えた。陽菜子の引く力に導かれ、私は最後の一歩を力強く踏み出した。



 神社に駆け込んだ瞬間、世界は二つに分かれた。外は激しい雨音が支配する混沌。中は、雨の匂いに包まれた息苦しいほどの静寂。古い木と湿った土の香りが、私たちの周りに満ちていた。陽菜子の荒い息遣いと、私の早鐘を打つ心臓の音だけが、やけに大きく響いている。


「うわ、靴下びしょびしょ。気持ち悪っ!」


 沈黙を破ったのは、陽菜子。彼女は神社の本殿の木でできた階段に無造作に腰かけると、バッグを放り出して、あっさりと自分のローファーを脱いだ。そして雨でぐっしょりと濡れた白いソックスを、何の躊躇いもなく足から引き抜く。絞れば水滴がしたたりそうなそれをべちゃっと脇に置くと、陽菜子は素足のまま、再び黒いエナメルのローファーに足を入れた。雨に濡れて白さを増した華奢な足首と、黒光りする靴の硬質な対比。そのあまりに無防備で、どこか官能的な光景から、私は目が離せなかった。


「陽菜子、髪の毛すごいことになってるよ。濡れた子犬みたい」

 私がどうにか声を絞り出すと、陽菜子は「え、うそ!?」と慌てて手櫛で髪を整え始めた。そしてその手が、ふと止まる。彼女はじっと私の目を見つめた。


「聖奈さ、やっぱり最近なんか変だよ。ここ何日か、ずっと私のこと見てる。私になんか隠してることない?」


 その、まっすぐな瞳に見つめられて、私はもう、逃げられないと悟った。ここで溢れ出さなければ、私は私でなくなってしまう。


「……ねえ、陽菜子」

 私の声は、雨音に負けそうなくらい、か細く震えていた。「大事な話があるの」

 陽菜子はまじめな顔をして、黙って私の次の言葉を待っている。その静けさが、かえって私に覚悟をくれた。


「陽菜子のことが、好き。ずっと前から。陽菜子が笑うと、周りの空気が全部きらきらするみたいで。でも、たまに一人で遠くを見てるときの、誰も知らない顔も好きで……。友だちとしてじゃなくて、恋愛的な意味で、好きなの」

 言ってしまった。一度口から出てしまえば、もう後戻りはできない。

「それだけじゃないの。私、おかしいんだと思う。でも、聞いてほしい。気持ち悪いって思うかもしれない。自分の友だちが、そんな目で自分のこと見てたなんて……」

 私は、カナブンとゴキブリの事件を出しながら、自分の倒錯した感情をすべて吐き出した。ひどいと思うのに、陽菜子が綺麗に見えたこと。その残酷さごと、愛おしいと思ってしまったこと。


 告白は懺悔にも似ていた。これで終わりだ、と思った。軽蔑される。気味悪がられる。陽菜子は私から離れていくだろう。雨音が、まるで世界の終わりのための音楽のように聞こえた。

 長い、長い沈黙の後。陽菜子の唇が、ゆっくりと綻んだ。それは、いつもの太陽みたいな笑顔とは違う、もっと静かで、深い、慈しむような微笑みだった。


「そっか……」

 陽菜子は、そっと私の濡れた頬に手を伸ばした。

「びっくりした。でも、嫌だとか、気持ち悪いとか、そういうの、全然ないよ。むしろ…なんて言ったらいいのかな。嬉しい、のかも」

「……え?」

「私もね、聖奈のこと、ただの友だちだなんて思ったことないよ。ずっと。聖奈は特別。他の誰かと話してるの見てるだけで、なんかやきもち妬いたり。誰にも渡したくないって、ずっと思ってた。だから、聖奈が私のこと、そんなふうに見ててくれたの、すごく、嬉しい」


 陽菜子の瞳が、熱っぽく潤んでいる。

「小さいころから、ちょっと面白かったんだよね。アリの行列とか、わざと踏んでみたり。ぷちってなる感触がなんだか気持ちいいって…。

変でしょ? でも、誰にも言えなかった。みんな、残酷って言うから。でも、聖奈は、それも『私』だって言ってくれるんだね。私の、他の誰もわかってくれないところ、聖奈だけは気付いて受け止めてくれたんだ」


 陽菜子は私の手を取り、引っ張って立ち上がらせる。そして、足もとの石畳を指さした。雨に打たれる地面の上で、小さな緑色の点が、ぴょんと跳ねた。カエルだ。


「聖奈が本当に、私のそういうところも好きでいてくれるなら」

 陽菜子は私の目をまっすぐに見つめる。

「これを見ても、私のこと、好きでいてくれる?」


 彼女はゆっくりと神社の階段を降りる。素足に履いた黒いエナメルのローファーが、濡れた土の上にはっきりとした靴跡を残していく。彼女はカエルのすぐそばで立ち止まり、囁くように言った。

「聖奈のために」

 次の瞬間、陽菜子は黒いローファーの少しだけ高いヒールを、静かに、そして正確に、カエルのみずみずしい背中の真ん中に躊躇いなく落とした。


 ぶちゃ、という鈍い、水っぽい音がした。緑色の皮膚が張り詰め、耐えきれずに破れ、中から赤黒いものと白い粘液が溢れ出す。小さな脚が、一度だけ痙攣した。

 陽菜子は少しの間そのまま体重をかけ、それからゆっくりと足を上げた。

「……すごいね」

 彼女は、自分の靴底を覗き込みながら、恍惚と呟いた。

「見て、聖奈。ぐちゃぐちゃ。さっきまで跳ねてたのに、もうただの絵の具になっちゃった。足の裏、まだちょっと、ぐにゅってした感触が残ってる。面白いね、これ」

 靴底には、潰れたカエルの皮膚と臓物が、ローファーの靴底の複雑な凹凸を刻まれて、無惨な模様となってべったりと貼り付いていた。


「どう? 聖奈?」

 陽菜子の声が、私を現実へと引き戻す。「これが、好きなんでしょ? 私がこんなことして、ドキドキしてる?興奮してる?」

 息が、できない。目の前の光景と、陽菜子の言葉が、私の脳を痺れさせる。

「聖奈も、やってみて」

 陽菜子が、悪魔のように優しく誘う。「私に、聖奈の気持ちを見せて。私と、同じになって」


「む、無理だよ……」

 声が震える。見ていることと、自分でやることは違う。この一線を越えてしまったら、もう二度と元には戻れない。

「できない……私には……」

「だいじょうぶだよ」

 陽菜子はいつものようにすぐ隣りに来て、私の肩を抱いた。

「怖くないよ。目をつむって、私のことだけ考えて。私と一緒になるための一歩だよ。これができたら、私たちは本当の意味で二人きりになれるんだよ。誰にも邪魔されない、私たちの世界に行けるの」


 陽菜子の言葉が、私の最後の理性を溶かしていく。彼女と同じ世界に行きたい。その一心で、私は操り人形のように頷いた。

 すぐ近くに、別のカエルがいる。震える足で、一歩、また一歩と近づく。目をぎゅっとつむり、息を止めて、自分のローファーを、かぶせていく。


 足の裏、つま先の辺りに、これまで感じたことのない、柔らかな抵抗が伝わった。生きているものの、ぬるりとした感触。数瞬後、骨が、臓物が、ぶちぶちと砕けて潰れていく微かな感触。罪悪感と、それを遥かに上回る強烈な快感が、目眩となって私を襲う。

 ゆっくりと目を開ける。私の足の下で、命が赤いシミに変わっていた。

「……あ……」

 声にならない声が漏れる。

「……生きてたんだ……。柔らかい……陽菜子の言ってた通り……」

 私は、自分の足の下で起こった惨状に、目が離せなかった。

「……私……やっちゃった……」

 呆然と呟く私を、陽菜子が後ろから優しく抱きしめた。

「うん、やったね。聖奈もできた。ようこそ、聖奈。こっち側へ。私たちの記念日だよ」


 私たちは、互いの靴底についた「証」を見せ合う。陽菜子は、私のローファーの底についた汚れを愛しげに見つめる。

「これが聖奈の覚悟の印だね。綺麗だよ」

 そして、どちらからともなく、笑い出した。雨音にかき消されそうな、狂気的で、しかし二人にとっては幸福な笑い声。


「もう、後戻りできないね、私たち」

 私の言葉に、陽菜子は首を横に振った。

「後戻りなんてしたくないよ。やっと、聖奈と本当の意味で一緒になれたのに」

 彼女が私の顔を引き寄せた。

 雨に濡れた唇が、ゆっくりと重なる。それは、初めての、お互いのすべてを受け入れ合う、契約のキスだった。雨の匂い、湿った土の匂い、そして微かな血の匂い。そのすべてが、私たちの間で溶け合っていく。私の長い髪と陽菜子のポニーテールから雨が滴る。

 これが、新しい本当の私たちなんだね。

 激しい雨音が、私たちの世界の完成を祝福するように、いつまでもいつまでも降り注いでいる。

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