第26話「萍水相逢う」
血の匂いが鼻腔いっぱいに広がる。最後に鼻血を出したのはいつだったかな、意識が途切れる前にそんなことを考えた。
──《逆流》を実行。
握り潰さんと迫る鉤爪に剣を噛ませ、死を書き換える。本来は胴を両断するだろう風の刃は、そよ風となり俺の肌を撫でるばかりだ。
ヴェルデの仕業だ。風の攻め手をおおかた無視してもよくなったのは有難い。
この応酬はルナと戦い始め、十四度目の死を回避した時だった。俺はある異変に気づく。
青い月を浮かべていた大穴が消えた。
──あぁ、大丈夫だったのか。
三人があの青い月をどうにか抑えたようだ。特にシアンは相当無理をしただろうに、よくやってくれた。
本当に強いなあいつらは。空を見上げ、思わず笑みがこぼれた。
「不敵、なぜ笑うの?」
ルナは怪訝そうに俺を見る。
おおかた、俺が何かしら悪企みをしてるとでも思っているんだろう。
「んー? あぁ悪いな。嬉しかったんだよ」
俺は当初、あの月は三人の手に余ると思っていた。ヴェルデが加勢に来た時も、あちらに手を貸すべきだと感じた。
だが、三人は解決してみせた。
この一帯を飲み込むだろう水を止めてみせた。
あいつらがやり遂げたんだ、俺も負けていられないだろ。
「さ、こっちも終わらせるか」
「──ッ!」
俺の勝利宣言に不穏な物を感じたのか、ルナは大きく飛翔する。
無駄だ、逃げの一手は俺の前では通じない。
俺は数字の8を描くよう袈裟斬りから左袈裟へ繋げて剣を振ると、ルナを呼び戻す。
── 讙兜へ《逆流》を実行。
時を戻したことで、飛び上がったルナが再び俺の前へ戻ってくる。
戻されるや否や、すぐさま鉤爪を振り下ろしてくる。一動作で攻撃を仕掛けられるよう、腕が上げられていたらしい。ルナなりに俺の時戻しへ対抗したのだろう。
だが、それも
目論見通り、ルナは俺の策に
──十拳剣へ《逆流》を実行、《急流》を実行。
斬撃が戻る。振っていた二度の袈裟斬りが、ちょうど逆袈裟となりルナへ迫る。
「安易。この程度なら、まだ耐えられる──!」
ルナは宣言通り、その二度にわたる斬撃を爪で抑えてみせた。
残念、俺の本命はそれじゃない。
二本目の十拳剣から繰り出される逆一文字。渾身の右薙がルナを捉えた。
「この騙し討ちは、躱せなかったみたいだな」
位置の早戻しは早々に対策されたが、これは見抜けなかったらしい。
致命傷にこそ至らないが、腕の羽根は半ばで両断されていた。機動力は半減、先ほどのような高速戦闘はおろか、逃げ足も発揮できないだろう、
「……残念。時間切れ、だね」
息も絶え絶えのルナがそんなことを言う。
時間切れ? どういうことだ? その訳を
空間がひしゃげる。
俺は、この閉塞感を知っている。
「よせ」
ただ一言だった。
その言葉は爆撃めいた衝撃をもって、頭上から降ってきた。
揺れている。森が、世界がガタガタ震え、怯えている。獣が唸るような地鳴りが響く。
言葉を発しただけ。ただそれだけなのに世界があの存在に悲鳴をあげている。今にもバラバラに砕け散ってしまいそうなくらい、切迫した
世界があいつを許容しきれていないのだ。
人が立つのがやっとの
崩れてしまいそうなプレッシャーに抗い、声のした方を見上げる。
空が割れていた。
ガラスを殴りつけたよう
「まったく、だから言うたじゃろ。見つけても手を出すなと」
幼なげな印象を受けるルナよりも更に
その顔を忘れるわけがない。
前世を──いや、連環を幾つも破壊した悪神。
「久しい
幼子のような舌たるい甘い声。耳にこびりついて離れない。その声に喚起され、遠く曖昧だった記憶が鮮明になっていく。
「
まつろわぬ神。平伏せざる光輝。悪の概念。
全てあいつを指す言葉だ。俺を、
俺は、何を震えているんだ。
弱気になるな。少し前に誓ったばかりだろう。取り返しのつかないことだってある、だから今度こそ全て守ってみせると。たとえ、刺し違えることになっても──
十拳剣の柄を今一度固く握りしめる。
「大丈夫だよ。きっと大丈夫だから」
「ヴェルデ……」
いつの間にか隣に来ていたヴェルデが、空いた俺の手を取る。柔らかく、温かな手だった。
震える俺達をよそに、太白は子猫にでもするように首根っこを摘みルナを拾い上げる。
「しっかし弱い喃、お前。だから探すだけにしておけと言うたのに……」
「迷惑、わたしは探し出した。口出さないで」
ルナに捜索を命じたのは、太白だったのか。
その目的がわからない。件の《
「俺たちを、殺すのか?」
「あぁ? 別に興味ないわい、そんなモン」
あっけらかんと言い放つ。
お前らの存在など取るに足らん。その口の端には、路傍の石に向けられるほどの関心も見えなかった。
「儂はな、面白いことがしたい。全力で何かをぶっ叩いてみたいだけじゃ」
物騒なことを口にしつつ、角のない拳を握る太白。……前回のアレは、全力でなかったとでも言うのか。
「まぁそうさな。くだらんと思ったら全て壊すじゃろ。連環ごと、な」
脅しや誇張ではない。太白はただ思い切りその腕を振るだけで、破壊できるだろう。
「そんなことをさせるわけが──」
「おい、そこはお前も同じじゃろ? 気に食わん展開になってきたら、ぜーんぶ
……太白の指摘は当たっていた。
ルナが俺へ向かって来たから戦っていたが、全力で他の四人を狙っていたら即座に【
「力を持った奴はみぃんな同じことを考える。力を
見透かした風な太白に、何も答えることができない。あいつの言う通り、同じ穴の
「はいストーップ。ウチの大事なリーダーを、あんましイジメんとってね」
ヴェルデが遮るように一歩前へ出た。
太白は矢面に立ったヴェルデへ怪しばむ視線を向けて、幾許か見つめ──
「ふはっ! 女房が出てきおったわ! おお、怖い怖い……」
太白は突然、心底楽しそうに
──戦うって決めたのに、女の後ろで縮こまってていいわけないだろ。
俺もヴェルデに並び、太白を睨み据える。
「うん、いい眼じゃな。それこそ男の眼じゃ。──さて、懐かしい
そう言うなりルナを片手に、空に走った亀裂へと取って返す。
「あ、そうそう──」
忘れとった、と太白は付け加える。
「儂ら二人はお前を気に入っている故まだ手は出さんが、他の《
こちらを振り向きもせず、そう言った。
「否定、わたしは玄野影徒を殺す!」
「これ、暴れるな。──お前じゃないわい
太白は手の内で暴れるルナをあやしながら、俺にそう言って
俺の中に、一つ思い当たる名があった。
「待て、クエム──クエム・クエリティスもこの世界にいるのか!?」
「おん? 今は
それだけ言うと二人はひび割れた空へと姿を消す。もう震えは失せていた。
静かに、太陽が赤くなり始めていた。
ぽっかりと穴の空いた空も塞がりつつある。俺達は、ただその様をじっと見つめていた。
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