第7話
「どうして、そう思うの?」
守さんはグラスをカウンターに置いた。少し悲し気な眼差して麻衣さんを見る。
「会議は、午後からだったんですよね」
守さんの声は低く、とても静かだ。聞く人を労わるように穏やかに優しく響く。
「肘に擦り傷を負ったという事は、半袖を着ていたという事ですよね。ならば季節は夏。だったら、真理恵さんを階段から突き落としたのはドッペルゲンガーなんかじゃありません。生きた人間です」
「だから、どうして?」
麻衣さんは少し苛立ったようだった。守さんの顔を正面から見詰める。
「慎子さんは、ずっと会議に出ていたのよ」
守さんは布巾を手に取り、またグラスを磨き始める。
「だから、みんなが口裏を合わせてたんです」
麻衣さんは口の端だけで笑い、呆れたように首を振った。両手を広げて、一言一言を区切るように説明を加える。
「ウェブ会議は録画されていた。慎子さんは会議の間中、一度たりとも席を外さなかった。OK?」
守さんが頷く。
「慎子さんは真理恵さんを突き落とす事なんて出来なかった。確固たる証拠があるんだから」
守さんが磨いていたグラスが、きゅっと小さく音を立てた。
「そう。慎子さんに犯行は不可能だった。だから、犯人は別の人間なんです」
麻衣さんの攻撃的な口調に乗せられることなく、守さんの口調は静かで、妙に淡々と聞こえた。
「慎子さんが会議中に席を外さなかったことを、参加者全員が認めた。けれど、他の誰かがいなくなっていた事を報告する者はいなかった。その誰かが、真っ先に慎子さんのアリバイを証言していたからです」
「どういう意味かしら?」
「その場にいた皆が口裏を合わせたんですよ。積極的に庇うことは出来なくても、消極的な方法ならとれます。ただ黙っているというやり方で」
つまり、慎子さん以外に席を外した人がいて、その人が真理恵さんを突き落とした犯人で、慎子さんのアリバイを証明することで同時に自分のアリバイも証明している。そして、その場にいた人たちは、それを知っていながら口を噤んだ。そういう事なのだろうか。でも、真理恵さんは慎子さんに突き落とされたと言っている。はっきり顔を見たとも……。
「顔なんて見えなかったと思いますよ」
守さんは言った。
「階段を降りようとしている時に突き飛ばされたのであれば、当然背中からだったでしょう。振り向いて見たとしても、正面にある窓から差し込む西日によって逆光になる筈ですから、人物は影になる」
「見てきたように言うのね」
麻衣さんが肩を
「だったら何故、真理恵さんは慎子さんに突き落とされたと主張したの? どうして、はっきり顔を見たと言ったの?」
責めるような、挑むような口調だった。仄見える怒りに動揺した柚彦は銀二さんの顔を盗み見た。けれど銀二さんは椅子に座ったまま表情一つ変えない。
「人の記憶というのは曖昧で、いとも簡単に書き換えられます。自分が経験したことだと思い込んでいても、実際は誰かから聞いた話だったりテレビで見た事だったり、というのはよくある話です。階段から落とされるという極限状況で、記憶が書き換えられたとしても不思議じゃない。もちろん、途中から引くに引けなくなったとも考えられますが」
「詭弁ね」
麻衣さんが守さんを睨む。苛立っているのは明らかだった。
「ご都合主義にも程があるわ」
「そうでしょうか」
守さんは相変わらず穏やかな口調で、何故か憐れむように麻衣さんを見た。
「真理恵さんが、自分を突き落とした誰かを慎子さんだと思い込む理由があったとしたら?」
麻衣さんは、意味が分からないといった顔で守さんを見詰める。顰められた眉が困惑を表していた。
「五感というものは、感覚が脳に伝達された後で理由付けがされます。例えば『熱い』という感覚は、感覚が脳に達してから、熱された薬缶を触ってしまったことと結び付けられる。もし、その時点で書き換えが行われたとしたら」
誰も言葉を発しない。柚彦は耳に全神経を集めて、守さんが言わんとしていることを知ろうとした。
「相手を慎子さんだと思い込む理由があったんです。例えば、……匂いであるとか」
麻衣さんが、はっとしたように目を見張る。柚彦も気付いてしまった。そうだ。彼女は言ったのだ。
──お気に入りのコスメを教えてもらって、真似した。
匂い……香水。お揃いの。
少しして、麻衣さんの肩から力が抜ける。泣き笑いのような表情を浮かべた彼女が何か言おうと口を開いた時、銀二さんが
「違うな。守の推理は、とんだ的外れや」
「え?」
麻衣さんと柚彦が、同時に声を発した。三人の視線が銀二さんに集まる。皆を
「この謎は、
金田一京助──国語学者の?
「じっちゃんの名に懸けて」
じっちゃんって誰だ?
「真実は、いつも一つや」
それは番組が違う!
柚彦の心の叫びは言葉にはならなかった。銀二さんは悠々とグラスを煽り、十分な溜めを作った後で厳かに言った。
「それは、タヌキの仕業や」
沈黙が降りた。ほんの僅かな時間であったのだろうが、柚彦には長い時間に思えた。
「……そうか。なら仕方ないね」
守さんが、驚く程あっさりと自説を取り下げた。
「タヌキって……」
ポカンとした表情を浮かべた麻衣さんは、妙に幼く見えた。明らかに混乱している様子の彼女に、銀二さんは静かに語りかけた。
「怪我は大したこと無かったんやろ。いじめも治まって職場の雰囲気も良うなった。それで、ええやないか。あんたらは、また昔みたいに仲良うしたらよろしい」
慈しむような眼差しが、何かを柔らかく溶かしていくように感じた。
「……そうやろ、お嬢さん」
柚彦は、麻衣さんの目が真っ赤になっているのに気付いた。消えそうに小さな声で、彼女は「ありがとう」と言ったようだった、けれど。
「マティーニですね」
守さんが、そう言って棚に手を伸ばしたから、きっと、柚彦の効き間違いだったのだろう。
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