第6話

 事件は起きた。真理恵が階段から落ちたのだ。

「怪我じたいは、軽い打撲と肘の擦り傷だけで大したことなかったんだけど、その後が大変だったの」

 真理恵が、慎子に突き落とされたのだと主張したのだ。現場を目撃した者はいなかったが、真理恵は、はっきり犯人の顔を見たと言い張った。間違いなく慎子だったと。

 警察沙汰にすることはいとわれたので、社内での調査が行われた。

「誰もが一度は慎子さんを疑った。そうしても仕方ないぐらい彼女が追い詰められていたのを、みんな知っていたんだと思う」

 けれど、それは覆された。事件が起きた時間、慎子のチームは会議に入っており、そこにいた全員が、慎子が一度も席を外さなかったと証言したのだ。

「見間違いじゃなかったのかと上司が真理恵さんに確認したけれど、彼女は頑として認めなかったの。自分は慎子さんに突き落とされた。間違いないと」

 いつの間にか銀二さんと柚彦は、麻衣さんの両隣のスツールに腰かけて話を聞いていた。柚彦の前には銀色のお盆があり、銀二さんの前には、いつの間にか水割りが置かれていた。

「それって…」

 言いかけた柚彦に三人の視線が集まる。緊張して唇が渇いた。

「チームの皆が口裏を合わせてたとか、じゃないんでしょうか」

 誰もが集団いじめを正当だと認識していた訳ではない筈だ。慎子さんを可哀想に思っていた人も少なからずいただろう。助けてやれない自分を責めていた人もいる筈だ。チームの誰かが嘘のアリバイを証言した時に、それに乗っかる形で同意してしまったという事は十分考えられる。逆にそこで一人だけ慎子の不在を主張することは、第三者でいたい人間にとってはリスクがあるのだ。

 誰も何も言わない。授業で当てられて答えた時のような緊張感があった。

「それがね」

 暫くして、麻衣さんが口を開いた。

「物理的に証明されちゃったの」

 その日の会議は他の支社とのウェブ会議で、内容が録画されていた。ちょうどカメラの前に座っていた慎子の姿は、最初から最後まで画面から外れることはなかったのだ。完全なアリバイだった。動かぬ証拠を前に、真理恵はそれでも慎子が犯人だと言い続けた。

「真理恵さんは嘘をついて人を陥れようとした。皆がそう認識することで、社内の空気は変わっていった。慎子さんに対する阻害は無くなり、彼女の業務はスムーズに運ぶようになった。逆に真理恵さんに対しては、皆よそよそしくなったわ。敬して遠ざける、って感じで、仕事以外では避けるようになったの。暫くして彼女はまた異動していった」


 ある日の午後、麻衣は真理恵が落ちたという階段の上に立っていた。経費削減のために天井灯が消された階段は薄暗かったが、上がり切ってすぐの廊下には正面に大きな窓があり、そこから差し込む西日が眩しかった。真理恵は何故ああもかたくなに、慎子が犯人であると主張したのだろうか。あり得ないことだ。慎子は会議に出ていた。この場所で真理恵を突き落とすことなど出来はしない。理屈を捻じ曲げてでも慎子を悪者にしたかったのだろうか。それ程までに憎んでいたのだろうか。慎子は真理恵に何もしていないのに。何の根拠もない憎しみが、そこまで増幅するものなのだろうか。

──真理恵さんはまだ、私には何をしても構わないと思っているのよね。

 そう言った慎子の微笑は痛々しかった。彼女は陰口を嫌っていた。誰の事も悪くは言わなかった。誰かを自分と同じ目に遭わせることを良しとしなかった。辛かっただろう。けれど慎子は耐えた。痛々しいほどに自分を律した。だから……。


「それで、ドッペルゲンガー」

 ようやく話が繋がった。つまり、真理恵さんを突き落としたのは、慎子さんの生霊であり、苦しみが限界を超えた事で、彼女の精神は肉体を離脱し、心の奥底に押さえ付けられていた怨念のままに行動を起こした。そう麻衣さんは言いたいのだ。

 何となく背中が寒くなって、柚彦は意味もなく後ろを振り返った。もちろん誰もいない。けれど何故か、部屋の温度が少し下がったように感じた。

「ドッペルゲンガーか」

 銀二さんが繰り返した。言葉にすると本当に思えてくる。世の中には不思議なこともあるものだ。麻衣さんは漸くグラスを口に運び、中の水を一気に飲み干した。銀二さんはスツールから立ち上がり、定位置になっている奥の肘掛椅子に腰を下ろした。守さんはグラスを磨きながら黙っている。柚彦も何となく席を立ち、カウンターの端に手を伸ばしてお盆を重ねた。

「ドッペルゲンガー、じゃないと思います」

 守さんが、ポツリとそう言った。

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