第5話

 ある日、麻衣は給湯室で真理恵に声を掛けられた。 

『麻衣さんって、話してみると聞いていたイメージと全然違うのね』

 何を言われたのか分からなかった。真理恵の麻衣に対する態度は他の人たちに対するものと同じで、直接に接する限り、嫌な感じは全くなかった。朗らかに話しかけられるままに麻衣は足を止めた。

「私は色々な人を見てきてるから、ある程度話せば人となりは分かっちゃうの。麻衣さんは、本当は仕事が出来る人だと思うわ」

 誉め言葉はスルーした。聞いていたイメージというのが気になった。

「あのね、実は……」

 ふと眉を顰めた真理恵は、内緒話をするように声を落とした。

「麻衣さんの仕事が遅いせいで、業務が滞ってるって聞いてるの」

 え?

「何回教えても同じミスを繰り返すし、自分で調べればいいことでも人に聞くし、新人じゃないんだから、そろそろちゃんとして欲しいのに本人にその気が無いから困るって」

 何かが胸に刺さった気がした。

「あ、私が言ったんじゃないのよ。聞いた話。もちろん信じてないわ」

 取り繕うようにそう言って、真理恵は続けた。

「大体、慕ってくれる後輩に対して、そんな言い方は無いわよね。ミスがなくならないのは指導方法が悪いからじゃない。自分の事を棚に上げてあなたを非難するのはどうかと思うわ」

 麻衣を指導する立場にいるのは一人しかいない。でも、慎子がそんな事を言うなんて信じられない。嘘だ。嘘に決まってる。

「あと、噂話が好きで信用できないって。きっと自分の事も悪く言われてるに違いないって……」

 言いかけて、真理恵は誰かに呼ばれたのか、「気にしちゃ駄目よ」と言って給湯室を出て行った。うっかりなのか、わざとなのか、電灯が消された給湯室に残された麻衣は、その場に立ち竦んでいた。慎子がいじめの事を相談してくれない、いや、話してさえくれないのは、麻衣が信用できないからなのだろうか。

 もう、何を信じていいのか分からなくなった。


「冷静に考えてみたら、慎子さんがそんな事を言う訳がない。だけど、その時、私は真理恵さんの言葉を信じてしまったの」

「何で……」

 思わず尋ねてしまった柚彦を一瞥し、麻衣は口元を歪めた。

「私の、コンプレックスだったから」

 だから否定できなかった。自分一人では何も出来ない。全部慎子に頼っている。彼女が忙しくなった今でもそうだ。慎子は嫌な顔ひとつしないのだけれど、もしかしたら心の中で煩わしく思われていたのだろうか。いや、そう思われていても仕方がない。事実なのだから。

「結局、自分でジャッジして決めつけていたのよね。自分が能無しだって」

 噂好きで信用出来ない、という言葉もそれを後押しした。社内の情報に疎い慎子に教えてあげているつもりだった。けれど迷惑だったのかもしれない。慎子が自分の事を相談しないのも、噂として広められるのを懸念してのことだったのか。そう思うと、悔しかった。信頼が裏切られた気がした。

「可笑しいでしょ。自分で勝手に思い込んで、傷付いて。馬鹿みたい」

 麻衣さんは、また氷を揺らした。グラスには口を付けず、コースターに置く。

「もう慎子さんに普通に接することが出来なくなってしまった」

 休日に一緒に出掛けることもなくなった。会話もよそよそしくなって、以前はどんな風に喋っていたのかすら分からなくなった。

「慎子さんは何も言わなかったけど、日に日に顔色が悪くなっていくみたいだった」

 店内に暫くの沈黙が降りた。誰も、何も言わなかった。

「前の職場で慎子さんが虐められていた理由って何なんですか?」

 そう尋ねた柚彦に麻衣は冷たい眼を向けた。

「虐められる理由?」

 地を這うような声に、柚彦は自分の失言に気付いた。これでは虐められる方に原因があると言っているように取られても仕方がない。

「すみません。あの……そういう意味じゃないんです」

 しどろもどろに弁明する柚彦を見やり、麻衣さんはフッと口元を歪めた。

「慎子さんは空気を読めないタイプだから、時々そのせいで人を怒らせることがあるの」

 少し表情を和らげて言う。そうか。さっき、そんな事を言ってたっけ。

「ぶぶづけ食うてまう人なんやろな?」

 銀二さんが、妙な合いの手を入れた。

「何ですか、それ?」

 柚彦の問いに、銀二さんは「説明すると長なるさかい、自分で調べ」と言って、教えてくれなかった。

「慎子さんは、以前の職場で同僚の一人と揉めたみたいなの。揉めたって言っても相手が一方的に怒ってただけみたいだけど。……で、その人と仲が良かったのが真理恵さんで、そこから集団いじめに発展していったそうよ」

「それって……」

「そう。慎子さんは、真理恵さんに何もしていない。直接には関係ないの」

 誰かから悪口を聞き、悪人のレッテルを貼る。義憤、という言葉が正しいとは思えないが、それに似た感覚なのだろうか。自分により近い存在を「守る」という理由付け。親しい誰かとの共通の敵として、攻撃しても良い存在として認識することで、いじめは正当化される。

「いじめって、小さな殺意よね」

 麻衣さんは誰にともなく、そう言った。

「相手が幸せでいることを許さない。無視は、相手に存在するなって言ってるのと同じ。慎子さんは、毎日ちょっとずつ毒を盛られてるようなものだったのかも」

 麻衣さんの言葉を間違っているとは思わない。いじめが原因で心を病む人は珍しくない。その結果、自ら命を絶つ人が存在することも事実だ。しかしながら、いじめる側に加害者意識など存在しない。いじめの理由を相手の中に見つけ出し、攻撃するのだから。相手を自分たちとは違う「何をしてもいい存在」と定義づけてしまえば、良心は痛まない。そして人という生き物の中には、同族への加虐願望と言えるものが存在する。誰かを傷つけ痛めつける行為は、時として大きな快楽を伴うのだ。人は誰しも心の奥底に獰猛な獣を飼っているのかもしれない。相手の中に小さな瑕疵かしを見つけることは、それを解き放つ格好の口実となり得る。

「欠点がない人間なんか居らへん。けど、せやから言うて殺してええ訳ないわな」

 銀二さんが呟くように言って、そのまま黙ってしまった。守さんは何も言わない。さっきよりも、もっと長い沈黙の時間が流れた。

「それから暫くして、事件が起きたの」

 どこを見るともなく辺りを見回して、麻衣さんは声を顰めた。

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