第七話 運命の歯車、回り出す 前編

 ジリジリと肌を焼くような夏の暑さも、今日ばかりはどこか遠くに感じられた。都会の喧騒から少し離れた遊園地。村上悠馬と佐倉香織は、夏の同人漫画制作の労をねぎらうかのように、二人きりで訪れていた。


「美咲も誘ったんだけどさ、家庭教師のバイトが忙しいんだって。あいつも大変だよな」


 悠馬は、ベンチに座って目の前の噴水を眺めながら、いつものように屈託のない笑顔で香織に話しかけた。


「それでさー。その後さー、締め切り直前でさ、俺、マジで意識飛びそうになったんだよ!ハハッ」


 笑い話を振る悠馬に、香織は浮かない顔で「ええ、そうね…」と、どこか上の空で返事をする。その視線は、噴水の水しぶきのように、彼の言葉をすり抜けて遠くを見つめていた。悠馬はそれに気づく様子もなく、目を輝かせながら続けた。


「なあ、もし『続!夕焼けニャンニャん』が売れたらさ、何買う?」


「23万も入ってきたら、何でも買えるぜ!」


「俺は好きなゲーム買って、漫画も買ってー、あ、あとさ、新しい液タブも欲しいな!」


 未来の成功を夢見て、弾んだ声で語る悠馬。しかし、香織の心は、その言葉の明るさに反比例するように、どんどん沈んでいく。彼の頭の中には、いつも漫画しかない。自分の存在は、彼の夢を叶えるための道具でしかないのだろうか――。胸の奥に押し込めていた問いが、再び鎌首をもたげる。


「ごめんなさい。ちょっと急用を思い出しちゃった…。悪いけど先、帰るね…。」


 香織は突然、立ち上がった。悠馬は驚いたように香織を見上げたが、彼女はもう彼の目を見ることはできなかった。一瞬、迷いの表情を見せたが、決意を固めたように背を向け、その場を足早に去っていく。悠馬は、訳が分からないといった様子で、ただ彼女の小さな背中を見送ることしかできなかった。


 香織は、都内のおしゃれなレンガ床のベンチに一人、俯いて座っていた。夕暮れ迫る都会のビル群が、彼女の沈む心の色を映すかのように灰色に染まっていく。風が彼女の髪を揺らし、その孤独を強調するかのようだった。


 その時、偶然にも、村上悠馬のライバルである大空健太――ホノオが通り掛かった。スマートカジュアルな服装に身を包んだホノオは、ふとベンチの香織に目を留める。


「君は、佐倉香織ちゃんじゃないか。悠馬は一緒じゃないのか?」


 ホノオは、香織と悠馬が共同で夏コミの同人誌漫画を描いていることは知っていた。だから、彼女が一人でいることに疑問を抱いたのだ。


 香織は、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、今にも零れ落ちそうな涙が溜まっている。ホノオの顔を見た途端、彼女の目から、堰を切ったようにポロポロと涙が流れ落ち始めた。


「ど、どうしたんだ!香織ちゃん!」


 ホノオは驚き、慌てて香織の隣に腰を下ろした。香織は、これまでの悠馬との関係、彼の漫画への没頭、自分の寂しさ、そして今日突きつけられた孤独を、堰を切ったように全てホノオに打ち明けた。


 黙って香織の話を聞いていたホノオの拳は、次第に震え始めた。彼の心の中で、怒りが沸々と湧き上がってくる。


「悠馬の奴!こんな可愛い子をそんなに悲しませるなんて!」


 ホノオは、香織の悲しみに深く共感し、悠馬への怒りを覚えた。だが、すぐに彼はその感情を抑え、香織に優しい眼差しを向けた。


「君が務めるメイド喫茶には、俺も何度も通わせてもらったんだ。」


 ホノオの声は、香織の心に温かく響いた。


「香織ちゃんがお客に振りまく笑顔は、本当に最高だった。」


「俺も、君の笑顔につられて、何度一緒に笑ったことか…。」


 ホノオは、優しい声で香織に語りかける。


「そんな君に、そんな顔は似合わない。元気を出しておくれ。」


 彼の温かい言葉が、これまで我慢していた香織の緊張の糸をプツリと断ち切った。


「うわあああん!」


 彼女は、声を出して延々と泣き始めた。周囲の通行人が驚いて足を止め、ホノオ自身もその激情に驚きを隠せない。


「ちょ、ちょっと。香織ちゃん」


 だが、香織は構わず、ただただ声を出して泣き続けた。


「うわあああん!」


 ホノオは、香織の震える身体を包み込むように優しく抱きしめた……。香織は、彼の温かい腕の中で、子供のように泣き続ける。ホノオの胸に香織の涙が染み込んでいくが、彼は何も言わず、ただひたすら彼女を受け止めた。


「香織ちゃん…」


 ホノオの声が、香織の耳元で小さく響く。香織は、涙で濡れた顔をゆっくりと上げ、ホノオの目を見つめた。その瞳には、悲しみと、そして彼への感謝と、微かな希望が入り混じっていた。次の瞬間、彼女は涙を流しながら、ホノオの唇にそっと自分の唇を重ねた――。


 一瞬、目を見開いたホノオだったが、すぐに彼の表情は優しさに満たされた。彼は香織の身体を再び、そしてより一層優しく抱きしめた。都心の喧騒の中で、二人の心は、まるで磁石のように強く引き寄せ合い――通じ合った。夕焼けの最後の光が、抱き合う二人の姿を優しく包み込んでいた。


 落ち着きを取り戻した香織を連れて、ホノオは都内を案内し、彼女を元気づけるように努めた。そして、彼の作業場へと彼女を招き入れた。


「なんで、香織ちゃんがここに!」


 ホノオチームのメンバーたちが歓喜の声を上げた。そう、香織は、彼らが足繁く通うメイド喫茶の「みんなのアイドル」だったのだ。ホノオチームのメンバーは男性ばかりだが、皆、香織を優しく迎え入れた。


「ようこそ、我らの『ビッグバンアタックプロジェクト』へ。」


 彼らに囲まれた香織の顔には、自然と笑みがこぼれ、その場には温かい笑い声が満ちた。その後、ホノオはチームメンバー全員を連れて食事に行き、カラオケにも行き、それぞれ思い思いのアニソンを熱唱する。香織の歌声は透き通っており、メンバーたちはその可愛い歌声に聞き惚れていた。


 その夜、ホノオは彼の自室で一人、椅子に座り、鋭い眼光を虚空に向けていた。


「悠馬!許せん…!」


 その表情には、悠馬への強い怒りと、夏コミでの勝利への燃えるような闘志が宿っていた。


 そこへ、ホノオチームのメンバーの一人がやってくる。


「ホノオさん、夏コミのブースの配置ですが…」


 彼の言葉に、ホノオは勢いよく立ち上がった。


「みんなを集めろ!」


 ホノオは号令をかけた。悠馬との夏コミ対決に何としても勝つため、彼はあらゆる宣伝戦略を打ち出すことを決意した。ブースはどこよりも派手に飾り付け、来場者の目を引くようにする。派手な垂れ幕や、メンバー全員が着用するハッピも用意し、夏コミ当日を迎える万全の準備を整えた。


 2025年8月16日、夏コミ当日。東京ビッグサイトは、早朝から熱気に包まれていた。


 悠馬は自分のブースに美咲といたが、そこに香織の姿はなかった。ブースには前作『夕焼けニャンニャン』のキャラクターが描かれたタペストリーが飾られ、美咲が用意した『続!夕焼けニャンニャん』の段ボール箱が積み上げられている。


「遅いわね。香織、何してるのかしら…。」


 美咲は、香織が約束の時間になっても現れないことに、かすかな不安を感じていた。


 その時、悠馬は向かい側のブースに目を向け、ハッと息を呑んだ。


「え!なんで…?」


 向かい側のブースで、ホノオチームの華やかなハッピに身を包んだメンバーたちに囲まれるように、佐倉香織が座っていたのだ。彼女は、悠馬からの視線に気づいたのか、俯いて彼と目を合わせようとしない。


「香織…。」


 親友の美咲は、不安そうな顔で香織を見つめた。悠馬は、香織がホノオのブースにいるという信じがたい現実に、脳裏に雷が落ちたような衝撃を受けた。そして、その衝撃は、瞬く間に激しい怒りへと変わった。


「ちくしょう!あいつ、ホノオと浮気してやがったんだ!」


 悠馬の怒りの声が、会場の喧騒の中に埋もれていく。


 その時、ホノオが悠馬のブースへとツカツカと歩み寄ってきた。周囲の人間がざわめき始める。「おい。あれ、村上とホノオじゃねえか!」「ライバル関係って噂のあの二人か」人々は息を呑み、二人の間に漂う異様な空気に注目した。


 ホノオは、悠馬の目の前で立ち止まり、その鋭い眼光を真っ直ぐに悠馬に向けた。その気迫に、悠馬は一瞬たじろぎ、「な、なんだよ。ホノオ」と声を絞り出した。横にいる美咲も、その緊迫した空気に驚いて声も出ない。周囲の観衆も、誰もが固唾を飲んでその光景を見守っていた。


 しばらくの沈黙の後、ホノオは口を開いた。彼の言葉は、会場に響き渡るかのように力強く、そして明確だった。


「俺が勝つ!!」


 それは、宣戦布告だった。ホノオチームのメンバーたちが、その言葉に呼応するかのように歓喜の声を上げた。


「おおおおお!」


 彼らの雄叫びが、東京ビッグサイトの天井に響き渡り、夏コミの幕開けを告げた。




第七話 完

第八話に続く

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