第八話 運命の歯車、回り出す 中編

 灼熱の太陽がアスファルトを焦がす、あの夏——。雄馬は、隣に立つ彼女とともに、茜色に染まる空を見上げていた。あれは、まだ彼が漫画家を目指す途上にあった、2025年8月の出来事だった。そして、その熱狂こそが、俺たちの運命を大きく変えたのだ。


 今、俺の隣にいる彼女と、この夕焼けを見ていると、どうしてもあの夏を思い出す。2025年8月16日、日本最大の創作の祭典、コミックマーケット106――通称コミケ106が、その熱狂の扉を開いた日を——。


 数多の夢と情熱が織りなす空間は、近年稀に見る活況に沸き立っていた。


 思えば、あの眩いほどの喧騒の中で掴んだ経験こそが、俺のその後の人生を大きく変えたのだ。


 雄馬は茜色に染まる空を、遠い記憶を辿るように見つめていた——。


 その傍らには、まだ見ぬ未来から訪れたかのような彼女が、河原の土手に寄り添い、共に沈みゆく夕陽を眺めている。


 空の彼方、群れをなすカラスの鳴き声が、どこか郷愁を帯びた調べのように響き渡る。優しい風が、俺と彼女の髪をそっと撫でていった。


「雄馬君は知らないと思うけど、私もあの会場にいたんだよ」


 不意に、彼女の声が夕焼けの中に溶けていく。雄馬は穏やかに微笑み、その言葉を受け止めた。


「そうだったのか……」


 雄馬は、隣に座る彼女の手にそっと自分の手を重ねた。温かな感触が、互いの過去と現在を繋ぐかのように、静かに心を満たしていく——。


 ——開場を告げる合図が、重低音の轟きとともにドーム全体に響き渡った。その瞬間、堰を切ったかのように人気サークルへと向かう人々の波は、まさに激流と化し、瞬く間に長蛇の列を形成する。会場はクーラーも効かないほどの熱気に包まれ、むせ返るようなインクと汗の匂いが混じり合う。


 「新刊どうですかー!」「ノベルティ付きですよー!」といった呼び込みの声が、足音とざわめきに紛れて響き渡り、まるで巨大な生き物が脈動しているかのようだ。その熱は大手サークル、中堅サークルへと穏やかに、しかし確実に伝播し、一本また一本と新たな人の流れを生み出していく。


 そして、ウェブでの先行公開が既に話題を集めていた雄馬とホノオのブースにも、やがて確かな人の気配が、そして列が生まれ始めた——。


 雄馬とホノオのお客は、はっきりと対照的だった。


 雄馬の『夕焼けニャンニャン』は、その可愛らしい絵柄から特に若い女子に人気を集め、新作『続!夕焼けニャんニャん』への期待は高まる一方だった。ブースには、鮮やかな色使いのポスターが飾られ、見本誌のページをめくるたびに、会場の喧騒を忘れさせるような愛らしいキャラクターたちが目に飛び込んでくる。


 色とりどりの推しバッグを抱えた女子中学生や女子高生たちが、楽しそうな黄色い声を上げながら、ぎっしりと列を作っていた。彼女たちの熱い視線は、まだプロの片鱗もない雄馬へと注がれている。


 対する雄馬の向かい側のホノオのブースでは、熱い筆圧や熱血ギャグ展開が男性客の心を掴み、野太い声が響く男たちの列が伸びていた。そんな中でも、雄馬の元恋人であるメイド喫茶の「みんなのアイドル」こと、佐倉香織を目当てに列に並ぶ男性客もちらほらと混ざっている。


 雄馬と香織はまだ正式に別れたわけではなかったが、香織はホノオの圧倒的なリーダーシップと、時折見せる優しい一面に強く惹かれていた。


「雄馬先生ですか!」


 雄馬のブースに並んでいた一人の女子中学生が顔を赤くして話し掛けてきた。


「え?先生?俺のこと?」


 まだプロの漫画家にもなっていない漫画家志望の自分が『先生』と呼ばれたことに雄馬は驚きを隠せなかった。


「雄馬先生の『夕焼けニャンニャン』読みました!すごく良かったです!」


 雄馬はどう返せばいいか困惑していた。


「ほら。あんたのことでしょう?」


「彼女にとってはあんたは先生なのよ」


 隣に座る美咲は微笑みながら雄馬に話し掛けた。


「そ、そうか。」


「手ぐらい握ってあげたら?読者サービスも大事でしょう?」


 新刊の『続!夕焼けニャンニャん』を彼女に手渡すと雄馬は握手をしてあげた。「きゃ」と一瞬、その女子中学生は声をあげ「ありがとうございます!」と深々と頭を下げた。


 思わず雄馬は「えへへ」とデレデレした顔を見せた。


 その様子を向かい側のホノオのブースに座る香織は「まあ!デレデレしちゃって!」と内心、雄馬に対する怒りがこみ上げていた。


 雄馬のブースの女子の列を向かい側のブースで見ていたホノオに嫉妬心が芽生える。


「くそ。なんで奴のブースは、可愛らしい女子ばかりなんだ...!」ホノオは歯をギリギリ言わせた。だが、それ以上に奴は焦っていた。佐倉香織の涙が脳裏に焼き付いている。あの日、雄馬との関係を涙ながらに打ち明けた彼女の姿が、ホノオの心に怒りの炎を灯したのだ。このままでは、雄馬に、そして何より香織に、見下される気がした。香織の流した涙を、何としても晴らさなければならない。


「ホノオさん。落ち着いて下さい。客層なんてどうだっていいじゃないですか。同人誌が売れればいいんです。」


 メンバーの一人がホノオに慰めの言葉を掛けるが、その声も苛立ちを抑えきれないホノオの耳には届きにくい。


「それもそれだな。」


 ホノオは無理に冷静さを取り戻そうとした。


 横に座る香織は雄馬をジーっと睨んでいた。彼女の視線には、かつての恋人への割り切れない感情と、そして、自分の無念を晴らそうと戦うホノオへの、どこか切ない期待が混じり合っていた。


「よし。フェーズ2に移行するぞ!」


 ホノオは後ろに座る彼らのチームのブレーンであるメガネ君に指示を与える。


「メガネ君。フェーズ2を実行だ!」


 ホノオは今大会で雄馬に勝つために様々な作戦を立てていた。何よりも、佐倉香織の無念を晴らし、彼女の目の前で雄馬に勝利するという、強い執念が彼を突き動かしていた。


「わかりました、ホノオさん」


 メガネ君の眼鏡の奥が光る。


 するとメガネ君はインカムに手を伸ばし、低い声で指示を飛ばした。


「フェーズ2へ移行」


ザザザー!


「こちらα、フェーズ2、了解!」


「β、準備完了!」


「ガンマ、いつでもいけます!」


「全隊、フェーズ2開始!」


「ラジャー!」  


 ホノオチームのメンバーから次々と交信が伝達していく。


 フェーズ2とはホノオのブースの同人誌を手渡す速度や釣り銭を渡す速度を遅くすることで行列を維持させ、周囲からは人気ブースに見せかけ、新規客の興味を引こうというしたたかな作戦だった。


「一人辺り1分の遅れでも30人で30分の遅れになります。そのことにより列を30分維持させることが出来ます!」


 メガネ君は膝の上に置かれたノートパソコンのキーボードをカチャカチャ鳴らしながらデータを入力し複雑な計算をし始めた。


「ですがホノオさん。」


「フェーズ2はただ単に人気ブースに見せかけているだけで、むしろ売上げは落ちています。」


「ですが、この効果により新規客獲得には繋がりますので結果的に売上げは伸びますが、見極めが肝心です。コミケの開催時間がありますので時間切れが来て本来の売上げを逃すことにもなります。なので実際の効果を見て調整が必要なのです。」


「うむ、そうか。難しいことはわからんが調整はお前に頼む。」


「はい!ホノオさん」


 メガネ君の冷静な声が、ホノオの焦りをさらに煽るようだった。彼がブースを見やると、確かに列は伸びている。しかし、その列の奥からは、早くも「まだかよ」「全然進まねえな」といった苛立ちの声が聞こえてくるような気がした。


 すると新たな同人誌を求めて徘徊していたホノオを知らない一般客がホノオの列に気付き「人気ブースなのか?」と興味を持った一般客は見本誌をパラパラめくったのち、ホノオの列に一人また一人と列の最後尾に並び始めた。彼らの目には、列の長さだけが映り、その裏に隠された遅延の意図までは見えていなかった。


 一方その頃、雄馬のブースでは相変わらず若い女子人気が圧倒的だった。「見て。あれが雄馬君よ。」「なんて可愛いい顔をしてるのかしら」「爽やかな笑顔が素敵」といった女子たちの黄色い声が広がりを見せていた。


 その頃、雄馬ブースの頭脳である美咲がホノオのブースが明らかにおかしくなってることに気付いた。


「あいつ、なんて姑息な手を...!」


「ん?どうしたんだ。美咲」


 雄馬は呑気な顔を美咲に向けていた。しかし、美咲の表情からは、すでに闘志が漲っているのが見て取れた。


 すると美咲はノートパソコンに何やらデータを入力して複雑な計算をし始めた。彼女の指がキーボードを叩く音は、まるで戦場の指揮官が号令をかけるかのようだ。


「そっちがその気なら!」


 美咲もあらゆる作戦を独自に立てていた。美咲の目が光る。彼女の脳内では、すでに幾手先もの戦略が構築されている。


「雄馬!これで行くわよ」


 美咲はノートパソコンに打ち込んだメッセージを悠馬に見せた。「なるほど」と雄馬は一瞬頷く。すると雄馬はサイン色紙を手に立ち上がり、列に並んでいる女子たちにサインを書き始めた。


 なんと雄馬は待ってる女子たちに、即席でサイン会を始めたのだった。そのことにより彼のファンたちが喜びの声をあげ、それが周囲の一般客の目に止まり雄馬のブースに興味を持ち始めたのだ!


 雄馬のブースには女子たちの人だかりが出来る。見本誌を読んだ女子たちは、一人また一人と列の最後尾に並び始めた。待ってる間の女子客に対して軽い雑談をして新規女子客の心を和ませる。雄馬の笑顔は、普段以上に輝いていた。だが、内心では、この奇策がどこまで通用するのか、一抹の不安がよぎっていた。美咲が、この状況をどう見ているのか、彼は気になって仕方がなかった。


「まずいです、ホノオさん!」


 切羽詰まった声が、ブースに響いた。


「奴ら、即席サイン会を始めました!女子客が、まるで吸い寄せられるように、どんどん増えてます!」


 報告を受けたホノオの顔から、一瞬にして血の気が引いた。


「な、なんだと……!?即席、サイン会だと……!?」  


 ホノオは驚きに声を震わせた。彼の脳裏には、劣勢に立たされる自分のブースと、黄色い歓声に包まれる雄馬の姿が焼き付いた。


「くそっ……!このまま黙って見てるわけにはいかねえ!こっちも何か、何かやらなければ……!」  


 すると、その焦燥を断ち切るように、他のメンバーから声が上がる。


「ホノオさん!ここは……フェーズ3、どうですか!?」


「フェーズ3か……!――よし、いいだろう!」


 ホノオは彼らのブレーンであるメガネ君に指示を出す。


「おい。メガネ君!フェーズ3をやるぞ!」


「フェーズ3ですね。承知いたしました!」


 メガネ君の声には、知的な興奮が僅かに滲んでいた。眼鏡の奥の瞳が鋭く光り、彼の手が素早くインカムに伸びる。


「フェーズ3、実行」


ザザザー!


「こちらα、フェーズ3、了解!」


「βも続く!」


「ガンマ、待機!」


「よし、全隊、フェーズ3へ移行!分かったか!」


「ラジャー!」  


 ホノオチームのメンバーから次々と交信が伝達していく!


「よし!香織ちゃん。フェーズ3だ!わかったか。」


「はい!ホノオさん」


 香織の小動物のように可愛らしい顔が、パッと明るく輝いた。彼女の大きな瞳には、作戦への真剣な意欲が宿っており、ホノオの指示に迷いなく、力強く返事を返した。すると、


「あれーー!!こんなところに香織ちゃんがいるーー!!」


「ホントだー!!メイド喫茶のアイドル、香織ちゃんだーー!!」


 一般客を装ったメンバーたちがわざとらしく声を上げ始めた。すると周囲の一般客がホノオのブースに注目し始めた。「なんでこんなところに香織ちゃんがいるんだ」「香織ちゃんって言ったらあのメイド喫茶のアイドルだろ」


 一般の男性客は次々とホノオのブースに集まってきた。するとホノオのブースでは香織ちゃんの握手会を始め出した。その効果でホノオブースの列は一気に増えた。


 こうして、雄馬とホノオの一歩も譲らない男たちの戦いがコミケ106で繰り広げられていたのである——。




第八話 完

第九話に続く

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