二つの世界、一つの嘘
船団に戻った私を迎えたのは、部下たちの安堵の表情と、隠しきれない疑念の眼差しだった。
「嵐様! ご無事でしたか!」
「一体、何が……。まるで、何かに取り憑かれたようでしたぞ」
私は全身ずぶ濡れのまま、彼らに向かって言い放った。
「何もいなかった。霧が深かったせいで、岩に反響した波の音を、何かの声と聞き間違えただけだ。人魚など、最初から存在しない。これは、沿岸の村人たちの、ただの迷信に過ぎん」
それが、私のついた最初の嘘だった。
帝への忠誠を誓ったこの口で。武士の誉れを体現してきたこの身で。私は、世界を、仲間を、そして自分自身を欺いた。だが、不思議と罪悪感はなかった。むしろ、エリーというたった一つの真実を守るためなら、世界中の全てを嘘で塗り固めても良いとさえ思った。
部下たちは、私の言葉を信じはしなかっただろう。だが、彼らはそれ以上何も言わなかった。鬼神と呼ばれた私の決定は、絶対だ。彼らはただ、私の命令に従い、この海域からの撤退準備を始めるしかなかった。
その日の夜から、私の二重生活が始まった。
昼は、何事もなかったかのように撤退の指揮を執る、威厳ある将帥・橘嵐として。
そして夜。部下たちが寝静まるのを待ち、私は一人、小舟を盗み出して、エリーの待つ岩礁へと向かう。
「来たのか」
『来てくれたのね』
言葉と、魂の声が重なる。
毎夜、私たちは逢瀬を重ねた。語り合う言葉は少ない。いや、言葉など必要なかった。ただ、隣に座り、同じ月を見る。時折、彼女が私のために歌ってくれる、あの魂の歌を聞く。それだけで、私の空っぽの器は、生まれて初めて満たされるという感覚を知った。
ある夜、私は内面の独白に耽っていた。
『さて、橘嵐よ。お前は何をしている? お前は帝の近衛であり、五人の妻の夫であり、二十一人の子の父だ。それが、今やどうだ。夜な夜な物の怪と逢い引きを重ね、任務を放棄し、嘘で全てを塗り固めている。これは裏切りか? そうだろうな。だが、裏切っているという感覚が、全くもってないのはどういうわけだ?』
思考は、まるで他人事のように明晰だった。西尾維新の作品の登場人物がするように、私は自らの状況を戯画化し、分析する。
『そもそも、忠誠とは何だ? 帝個人へのものか、帝というシステムへのものか。前者ならば、同じ魂の虚無を持つ者同士のシンパシーだ。後者ならば、俺の力で維持される秩序への責任感。どちらも、俺と帝の間にしか存在しない、極めて個人的な契約に過ぎん。世界そのものへの義理立てではない』
『では、愛は? 葵、静、他の妻たち。俺は彼女たちを本気で愛した。それは嘘じゃない。役割を背負わされた彼女たちを解放し、ありのままの姿で側に置く。それは俺なりの誠意であり、愛の形だった。だが、エリーへのこれは何だ? 彼女を解放する? 違う。俺が、彼女に解放されたがっている。俺という役割から。橘嵐という、空っぽの偶像から。これは愛というより、依存か? 帰依か? あるいは、ただの、破滅願望か?』
答えは出ない。だが、どうでもよかった。
隣に目をやると、エリーが私の髪にそっと触れていた。彼女の指先から、彼女が生きてきた千年の孤独が、静かに流れ込んでくるようだった。
月光が、彼女の鱗を濡らし、七色に煌めかせている。波の音が、世界から我々二人だけを切り取るための、優しい結界のように聞こえる。この美しさと、静謐さ。この時間こそが、私にとって唯一の真実。京の都での栄華も、家族との団欒も、全ては夢の中の出来事のように、遠く、色褪せていた。
京へ帰還する日が、刻一刻と近づいてくる。
その事実が、鉛のように重く、私の心にのしかかっていた。
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