境界の逢瀬
冷たい海水は、もはや私の体温を奪わなかった。いや、魂の中心で燃え始めたこの熱の前には、大海の水さえも生温いヴェールのように感じられた。
一掻き、また一掻きと、水を掻く。目指す先はただ一つ。月光の下、私を見つめるあの人魚、エリーの元だけだ。
岩肌に手をかける。ごつごつとした感触が、夢ではないことを告げていた。引き締まった武士の肉体は、この程度の登攀(とうはん)を造作もないこととして、私を岩の上へと運んだ。
濡れた衣が肌に張り付き、滴る雫が音を立てる。
目の前に、エリーがいた。
その距離、わずか三尺。
彼女の呼気さえ感じられるほどの間近で、私は改めてその存在の異質さと、抗いがたい美しさに打ちのめされた。海の底の静けさを湛えた瞳が、私を映している。その瞳の中の私は、ひどく滑稽で、哀れなほど必死な顔をしていた。
「……」
「……」
言葉はない。
だが、沈黙は雄弁だった。
お前は、なぜここへ来たのか。彼女の瞳が問うている。
お前に会うために。私の魂が叫んでいる。
私はゆっくりと膝をついた。それは、帝の前で見せる儀礼的な臣従とは全く違う。神の御前に跪く信徒のように、絶対的な存在を前にした、無防備で、純粋な帰依の形だった。
そっと、手を伸ばす。
指先が、彼女の尾に触れようとした、その瞬間。
エリーの体がびくりと震え、素早く身を引いた。その瞳に、怯えと警戒の色が浮かぶ。
そうか。俺は、人間。
彼女にとって、人間とは、家族を、友を奪った、狩人であり、捕食者なのだ。
私は伸ばした手を、ゆっくりと下ろした。そして、この場で己の無害を証明する方法が一つしかないことに思い至る。私は腰に佩いていた太刀を抜き、鞘ごと、岩の上に置いた。武士が、その魂ともいえる刀を手放すことの意味。それを彼女が理解できるかは分からなかった。だが、今の私にできる、唯一の誠意だった。
「俺は、お前を傷つけない」
声に出して、言った。
「お前を狩りに来たはずだった。だが、もうどうでもいい。今はただ、お前と共にありたい。それだけだ」
私の言葉に、エリーの瞳の警戒が、わずかに解けていく。彼女は私の太-刀と、私の顔を交互に見比べ、そして、信じられないものを見るような目で、再び私を見つめた。
その時だった。
『……どうして』
また、あの声ならざる声が、頭の中に響いた。
『あなたの魂は、あまりに渇いている。人間なのに。満たされているはずなのに。どうして、そんなにも、空っぽなの』
ああ、やはりお前には分かるのか。
この、俺自身でさえ持て余していた、巨大な空虚が。
「分からない」
私は、正直に答えた。
「俺にも、分からない。だが、お前の歌声を聞いた時、初めてこの器が震えた。お前に会った時、初めてこの器を満たすものを見つけたと、そう思った」
私の告白に、エリーは何も答えなかった。だが、もう後ずさりはしない。ただじっと、海の底のような瞳で、私という存在の奥底を覗き込んでいるようだった。
彼女が、そっと手を伸ばしてきた。
その指は、人間のそれより僅かに長く、水掻きのような薄い膜の痕跡があった。白魚のような、という陳腐な表現では足りない。深海の光を知らぬ生物だけが持つ、透き通るような白さ。
その指先が、私の頬に、そっと触れた。
冷たい。だが、心地よい冷たさだった。魂の熱を、優しく鎮めてくれるような。
その瞬間、私の背後、遥か遠くで、仲間たちが私を呼ぶ声と、船を漕ぎ出す音が聞こえた。現実が、私を呼び戻しに来たのだ。
「行かねば」
名残惜しさに、唇を噛む。エリーは、触れていた指を離した。その瞳に、初めて微かな感情の色が宿る。それは、孤独な子供が、ようやく見つけた遊び相手を取られてしまう時のような、寂しさの色だった。
「必ず、また来る。毎夜、必ず。だから、待っていてくれ」
そう言い残し、私は再び海へ飛び込んだ。
振り返ると、エリーは岩の上から、いつまでも私を見送っていた。その姿が、波間に見えなくなるまで。
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