八百九十四年九月三日
歌声に導かれるまま、私は小舟を漕ぎ続けた。
やがて、大小様々な岩が海面から突き出す、岩礁地帯に辿り着いた。波が岩肌に当たって砕け、白い飛沫を上げる。その中心に、ひときわ大きな岩があった。
歌声は、そこから聞こえてくる。
私は舟を岩陰に寄せ、息を殺してその姿を探した。
そして、見つけてしまった。
月光を一身に浴び、岩の上にその人が座っていた。
長い、濡羽色(ぬればいろ)の髪が、銀色の光を弾きながら背中を流れ落ちている。歌うために開かれた唇は、血のように赤い。そして、その肌は、まるで上質な真珠そのものが光を放っているかのように、青白く、滑らかだった。
その美しさは、私が知るどんな言葉をもってしても、表現することができなかった。私が京で見てきた着飾ったどの姫君とも違う。神々しいまでの美貌を誇る帝とも違う。それは、人の手が一切加わっていない、自然そのものが長い年月をかけて生み出した、究極の造形美。生命の、原初の輝き。
その腰から下は、人間のものではなかった。
月光を浴びて、淡い蒼や緑、紫の光を複雑に反射する、無数の鱗に覆われた尾。緩やかに揺れるその尾の先が、時折、下の海水をぱしゃりと叩いていた。
人魚。
紛れもなく、私が討伐すべき対象。国に厄災をもたらす、物の怪。
だが、その事実は、もはや私の思考のどこにも存在しなかった。
やがて、彼女は歌うのをやめた。
そして、ゆっくりと、こちらを見た。まるで、私がここにいることなど、最初から分かっていたかのように。
その瞳は、深い海の底の色をしていた。千年の時をただ一人で生きてきた者だけが持ちうる、底なしの孤独と、全てを諦めきった静かな悲しみを湛えていた。
だが、その瞳が私を捉えた瞬間。
ほんの僅かに、その色が揺らいだ。静まり返っていた湖面に、小石が投げ込まれたように。
驚き。好奇心。そして――私と同じ、同類の魂を見出したかのような、共振。
視線が交わったまま、時間が止まった。
世界から音が消え、ただ、目の前の存在だけが、絶対的な現実としてそこにあった。
その瞬間、私は、全てを理解した。
ああ。そうか。
私が今まで感じていた、あの埋めようのない空虚さと、どうしようもない渇望は。
全て、この瞬間のためだったのだ。
この存在に出会うために、私の魂は、これほど巨大な空洞を用意していたのだ。
父が死んだあの日から、私の心は鬼となった。
帝と出会い、その孤独を分かち合った。
多くの者を愛し、多くの命をこの手にかけた。
だが、私の魂が本当に震えたことは、ただの一度もなかった。
今、この瞬間までは。
私の名はラン。
私は八百九十四年九月三日、君に出会ってしまった。
その瞬間、虜になった。
私が「人魚を狩る」ために来たという事実も、京に残してきた家族の顔も、帝への忠誠も、積み上げてきた栄光も、全てが粉々に砕け散り、遠い銀河の塵のように霧散していく。
目の前にいる、君以外、何もいらない。
そう、確信してしまったのだ。
「お前は、誰だ」
掠れた声で、私が問う。
人魚は、答えなかった。ただ、その海の色の瞳で、私をじっと見つめ返すだけだった。その唇が、微かに動く。
『……エリー』
それは声にならぬ声。直接、私の脳髄に響いてくるような、魂の言葉。
エリー。
それが、私の永遠であり、私の破滅となる、君の名か。
私は櫂を放し、ゆっくりと小舟から海へ身を投じた。冷たい海水が体を包むが、寒さは感じなかった。ただ、エリーという名の引力に導かれるまま、私はその岩へと泳ぎ始めた。
ここから、私たちの、許されざる恋が始まった。
ここから、私が人ではなくなる物語が、始まったのだ。
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