今際の際に、俺は君に会いたい

春風秋雄

そろそろお迎えがきているのかもしれない

どうやら俺は、そろそろこの世を去ろうとしているようだ。

まあ、仕方ないか。この病に侵されて、もう3年になる。家に帰ることはもうないだろうと覚悟した最後の入院も、すでに3週間が過ぎた。いつお迎えがきてもおかしくない状態が続いていたのだから。

しかし、52歳でこの世を去るのは、ちょっと早いかなあ。でももう少し生きていたからといって、特にやりたいことがあるわけでもない。あとどれくらいもつのかな。さっき医師が、付き添ってくれている友人の桑本に近親者を呼ぶように言っていたので、今日あたりが山場なのかもしれないな。この二日くらいは、夢の中と現実を行ったり来たりしている。時々看護師さんが、「大野さん、点滴を替えますね」とか声をかけてくれるが、目を開けるのも億劫だ。

外で電話をかけて来ただろう桑本が、俺の耳元で「繁、お母さんに連絡したからな。今日中には来ると思うから、頑張れよな」と言ってくれた。そうか、お袋を呼んでくれたのか。30年ぶりの親子の再会が、こういう形になるとは思ってもみなかったな。

俺は熊本県の八代市の出身だ。八代市と言っても東京の人はほとんど知らないが、演歌歌手の八代亜紀の出身地と言えば、皆が「へえ!」と言ってくれる。今はどうか知らないが、俺が住んでいた頃は八代のことを「やっちろ」と呼んでいた。お袋は地元で、ひとりで暮らしている。東京までくるには飛行機を使って4時間半から5時間かかる。あの年で東京まで来るのは大変じゃないかと心配だ。

お袋には、ちゃんと謝りたかったな。

高校を卒業した俺は、親父が経営していた食堂を手伝っていた。両親は俺が食堂を継いでくれるものだと思っていただろう。22歳の時に、高校の先輩で、東京で働いていた高梨さんが、東京で一緒に会社を起こそうと誘ってくれた。東京で働けるということに魅力を感じた俺は、高梨さんについていくことにした。親父はカンカンになって怒った。東京で成功するなんて、そう簡単なものではない。絶対に失敗するからやめておけと言われた。それでも両親の反対を押し切って、俺は東京へ出てきた。最初は順調だった。はっきり言って仕事のことは何もわからなかった。高梨先輩の言うとおりに動いていただけだ。会社はモデルやコンパニオンを派遣する仕事をしていた。毎日渋谷や原宿へ行って、可愛い女の子がいればスカウトをして、登録コンパニオンの数を増やすというのが俺の仕事だった。東京の女性は皆綺麗に見えた。高梨先輩からは女の子は商品だから、絶対に手を出すなと言われていたが、先輩に見つからないように、たまには美味しい思いもした。給料もそこそこもらい、東京に来て本当に良かったと思った。

1年ほど経った頃に、高梨先輩が「大野の新しい名刺が出来た」といって、いきなり俺に名刺を渡してくれた。そこには「専務取締役」という肩書がついていた。俺は有頂天になった。飲み屋に行って女の子に誇らしく名刺を渡していた。そんな時、高梨先輩から「銀行から融資を受けるのに、連帯保証人が必要だ。お前は専務なのだから、俺と一緒に連帯保証人になってくれ」と言われた。連帯保証人という言葉にビビったが、先輩から「これでお前も一人前の経営陣だ」と言われ、嬉しくて引き受けてしまった。融資契約の日に、連れていかれた銀行は、いわゆる商工ローンだった。普通の銀行から借りるものだとばかり思っていたが、先輩から「中小企業を専門に融資している銀行だ。うちみたいな小規模の会社は皆こういうところで借りるものだ」と言われ、そういうものかと思ってしまった。

それから半年くらいした頃、コンパニオンから「この前の報酬をもらっていない。いつになったらもらえるのだ」とクレームがきた。社長の高梨先輩に連絡しようと思っても、東南アジアへ行ってモデルをスカウトしてくると言って、海外出張中で連絡がとれない。そうこうするうちに、商工ローンから返済が滞っていると督促状が届いた。あれよあれよという間に、会社の財産はすべて差し押さえられ、連帯保証人である俺が借金を背負う羽目になってしまった。あれから高梨先輩にはまったく連絡がとれていない。

俺はキャバクラのボーイをしながら、少しずつ借金を返していた。そのキャバクラで知り合ったのが桑本だ。桑本は福岡県出身で、同じ九州の出ということで意気投合した。キャバクラで働きはじめて4年ほどした頃に、親父が亡くなったと連絡がきた。実家には連絡先を教えていなかったが、ひとりだけ小学校から高校まで同じ学校へ通った友達に連絡先を教えていた。口が堅いやつで、最後まで俺のことは家族には内緒にしてくれていたようだ。そいつから電話があったのだ。しかし、どの面下げて帰れるものか。あれだけ反対されて家を出て来たのに、今の姿を見せられるわけがない。俺は熊本に向かって、そっと手を合わせるしかなかった。その後、その友達に聞くと、お袋はアルバイトをひとり雇って、食堂を続けていたそうだ。相当苦労したのだと思う。本当はもっと早くお袋に会って謝りたかった。しかし、これだけの期間実家に帰っていないと、帰る勇気がなかった。せめて逝ってしまう前にお袋に会って謝りたかったのだが、せっかく来てもらっても、この状態では謝ることすらできない。やはりもう少し前に会っておくべきだった。それでも、最期にお袋の声を聞きたいと思った。「何ばしとったばい!」と叱ってほしいと思った。


本当は、もう一人、今際の際に会いたい人物がいる。それは中村明美だ。明美は実家の食堂の常連だった。近くの信用金庫に勤めていて、お昼を食べに週に2~3回来ていた。俺の一目惚れだった。信用金庫では昼食は交代でとるようで、うちに食べに来るのは他のお客が帰ったあとの遅い時間だったので、少しずつ会話ができるようになった。年は俺よりひとつ下で、高校を卒業してすぐに働きだしたらしい。実家は隣の市で、就職が決まって信用金庫の近くにアパートを借りて一人暮らしをしているということだった。

俺は思い切って、花火大会に一緒に行こうと明美を誘った。いきなりの誘いで驚いたようだったが、明美は承諾してくれた。

明美はわざわざ実家から浴衣を送ってもらったと言って、浴衣姿で来てくれた。とても綺麗だった。

チケットを購入して、河川緑地の良い場所に陣取って座っていたが、俺は何を話せば良いのかわからなかった。花火が始まり明美は夜空を見上げる。「綺麗だね」と言って嬉しそうに見上げる明美の横顔は、花火よりも綺麗だった。俺は花火も見ずに、明美の横顔ばかりを見ていた。

花火が終わり、家に向かって歩いているとき、俺は思いきって言ってみた。

「明美さん、僕とつき合ってもらえませんか」

明美は驚いていた。しばらく考えているようだったが、少しはにかみながら小さな声で答えてくれた。

「まだ繁さんのこと良く知らないので、お友達から始めさせてください」

その言葉で十分だった。俺は嬉しくて嬉しくて、飛び上がらんばかりだった。

俺は女性と付き合ったことがなかったので、ぎこちないデートが続いた。映画を観に言ったり、ゲームセンターで遊んだり、その程度のデートしか思いつかなかった。何回目かのデートのときに、俺はドキドキしながら明美に言ってみた。

「明美さんの部屋を見てみたいな」

明美は一瞬無言になった。そして、静かに口を開いた。

「ごめんなさい。今日は部屋が散らかっているから、来週のお休みにしましょう。料理を作って待っているから」

初めて部屋にあげてもらえる上に、手料理までご馳走になれるなんて、こんな嬉しいことはない。

それからの1週間はとても長く感じた。指折り数えるようにその日を待ち、やっと約束の日が来た。明美のアパートへ行くと、たくさんの料理がテーブルに並んでいた。

「すごいご馳走だね」

思わず俺がそう言うと、

「大野食堂の味には叶わないけど」

明美は照れながら言う。

料理はとても美味しかった。食べ終わった俺が「本当に美味しかった」と言うと、明美が嬉しそうに言った。

「どう?私、大野食堂を手伝えそう?」

それは、将来俺と結婚して一緒に大野食堂で働いてくれるということか?俺は思わず明美を引き寄せて抱きしめた。

「立派な大野食堂の嫁になれるよ」

俺がそう言うと、明美はニコッと笑った。

俺は優しく口づけ、明美の服を脱がせようとすると、明美は「ちょっと待って」と言って、電気を消した。

明美は、俺が初めての男だった。


関係をもってから、明美は平日のお昼は毎日うちの食堂に来るようになった。ある日、お袋が「あんた、明美ちゃんと付き合っているの?」と聞いてきた。二人の雰囲気でそう感じたようだ。俺は正直に付き合っていると答えた。するとお袋は、昼食だけでなく、賄いでよければ夕飯もここで食べていいよと明美に言っていた。明美は照れくさそうに頷いた。

明美とのデートは、どこかへ遊びに行って、最後は明美のアパートへ行くというパターンだった。何回か繰り返しているうちに、俺はデートの度に明美のアパートに泊まるようになった。

「明美、今すぐじゃないけど、俺と結婚してくれるか?」

「うん。私は繁と結婚する。その時は、お母さんと同じように、私は大野食堂で働けばいいの?」

「まあ、親父とお袋が働けなくなったらお願いするけど、まだまだ大丈夫だから、それまでは今の信用金庫で働いていればいいよ」

「わかった。じゃあ、子供ができたときに信用金庫はやめることにする」

俺たちは幸せだった。この幸せがいつまでも続くと思っていた。

ところが、高梨先輩から東京行きの話がきて、俺たちの設計図は大きく変わることになった。


いきなり俺の前に現れた高梨先輩は、高級スーツに身をまとい、ロレックスの腕時計をして、見るからに羽振りが良さそうだった。久しぶりだから飲みに行こうと誘われ、このあたりで一番高級なクラブに飲みに連れて行ってくれた。

東京でどんな仕事をしているのか気になって聞くと、芸能関係の仕事をしているという。東京で芸能関係の仕事と聞いただけで、別世界の話だと思った。高梨先輩から、お前もこういう格好をして、高い酒を飲んで、いい暮らしをしたいだろ?と誘われ、真剣に考えた。毎日毎日1,000円ほどの定食を提供し、数百円の利益を得ているうちの食堂。贅沢さえしなければ暮らせる程度は稼げているが、これから明美と結婚して、子供でも出来たら生活は苦しくなるに決まっている。何よりも東京と言う都会で暮らしてみたいという憧れが強かった。

明美は露骨に反対した。

「私は贅沢な暮らしなんかしたいと思ったことないよ。繁と、この街で普通に暮らすのが、私にとっては一番の幸せなんだよ」

何度も何度も言い争いになり、俺は明美のアパートへ行くのが煩わしくなり、食堂で会う時以外は明美に会わないようになった。

東京行きを決意し、明日東京へ発つと言う日、久しぶりに明美のアパートへ行った。

ドアを開けるなり、明美は抱きついてきた。

「必ず東京で成功して、明美を迎えにくるから、それまで待っててほしい。約束する。必ず迎えに来るから」

俺がそう言うと、明美は俺の東京行きについては諦めたのだろう、

「絶対だよ。絶対に迎えに来てね。私、信じて待っているから」

泣きながら明美はそう言って俺にしがみついてきた。

翌朝、アパートを出る時、明美はポロポロと涙を流しながら見送ってくれた。明美のその顔を俺はいまだに忘れることができない。


東京に出てきてからしばらくは、高梨さんのマンションに居候させてもらっていた。3か月ほどしてマンションを借りて一人で住むようになり、明美に手紙を書いた。東京で元気にやっていると書いて送ると、すぐに明美から手紙がきた。

“繁、ご飯はちゃんと食べていますか?東京の暮らしに少しは慣れましたか?大野食堂は、おじさんとおばさんが頑張って、いつものように繁盛しています。ただ、二人とも、ふと寂しそうな顔をすることがあります。私だけでなく、ご両親にも手紙をだしてあげてください。きっと待っていると思います。

繁、寂しいよ。繁がいないこの街は寂しすぎるよ。繁に会いたい。繁の声をききたい。繁に触れてほしい。早く、早く迎えに来てください。待っています“

明美の手紙を抱きしめて、俺は思わず泣いてしまった。早く会社を軌道に乗せて、迎えに行かなければ。


渋谷にしろ、原宿にしろ、声をかけた女性のほとんどは地方から上京している人だった。俺も熊本から来たのだというと、すぐに打ち解けてくれた。やはり東京の男は怖いというイメージがあるのだろう。田舎から出てきた男であれば、警戒心が薄れるのかもしれない。

地方から出てきていても、東京という街に染まった女性はあか抜けて綺麗だった。地元にいた時は明美が一番綺麗だと思っていたが、目の前の女性と比べると、どうしても田舎の女性というイメージになってしまう。明美のことが好きなことに変わりはないが、目の前の綺麗な女性から誘われると、つい食事に行ったり、飲みに行ったりしてしまう。挙句の果てに、終電を逃して俺のマンションに泊めてしまうと、ついつい体の関係をもってしまうこともあった。俺も若かったので、性欲には勝てない。

そういうことがあると、後ろめたさもあり、明美への手紙が滞ってしまう。明美から3通手紙がきて、やっと1通短い手紙を出すといったペースになり、そのうち3~4か月に1回、思い出したように手紙を書く程度になってしまった。

東京は、お金さえあれば楽しいところだった。高梨先輩は、俺にそれなりの給料を出してくれたし、女の子との食事代や飲み代は経費として落としてもらった。俺もまだ若かったから、この生活を幸せだと感じていた。ふと、太田裕美の『木綿のハンカチーフ』という曲を思い出した。田舎に恋人を残して都会へ出て行った男が、時が流れるにつれ、都会の色に染まり、最後は恋人にもう帰れないと告げる。俺もそんな男になってしまうのだろうか。いや、俺は違う。必ず明美を迎えに行くのだ。と、その時は思っていた。


高梨社長が会社契約で携帯電話を支給してくれた。あくまでも仕事用として支給してくれたので、プライベートではあまり長電話できない。それでも明美は喜んでくれた。明美の声を聞くのは久しぶりだった。何度か東京に遊びに来たいと手紙に書いてあったが、その都度仕事が忙しいから会っている時間がないと断っていた。実際は様々な女性が泊まりに来ているので、部屋の中に女の影を見つけられるのが怖かったからだ。だから、ほんの短時間でも声を聞かせてあげたかった。

ところが、それから1年もしないうちに会社は倒産した。当然携帯電話も電話代を払えず繋がらなくなった。俺は慌てて明美に手紙を書いた。会社でトラブルが発生し、携帯電話は解約になった。マンションも近いうちに引き払って引っ越すつもりだと書いておいた。

実際、会社がつぶれ、大きな借金を背負ってしまった状態で、マンションの家賃は払えない。安いアパートに引っ越すしかなかった。


自分の貯金を差し押さえられる前に全額引き出し、そのお金で引っ越しをした。高梨先輩のように行方をくらまし、借金から逃れることも考えたが、融資契約の際に提出した書類には本籍地が明記されていたので、実家に取り立てが行くのだけは避けたかったから、正直に引っ越し先も商工ローンに伝えた。

俺はすべてを諦めた。東京で成功することも、明美を迎えに行くことも、そして熊本に帰ることも。とにかく借金を返さないことには自分の人生を取り戻せないと思った。俺は明美に引っ越し先を教えなかった。

しばらくは貯金で生活しながら就職先を探した。まともな会社には就職できそうになかったので、キャバクラのボーイに落ち着いた。

何件かキャバクラを転々として、借金を返し終えたのは、7年後だった。俺は31歳になっていた。


借金を返し終えた俺は、いままで返済に回していた金額を貯金に回すようにした。3年もするとそれなりの金額になっていた。俺は桑本に一緒に会社をつくらないかと誘ってみた。すると桑本は、会社は懲り懲りでしょ?飲食店をやろうと言い出した。二人であれこれ話し合って、お好み焼き屋を開くことにした。桑本もお金を出してくれた。

お好み焼き屋は原価が安いので、無茶苦茶儲かるというほどではなかったが、充分暮らせるだけの稼ぎはあった。店が軌道に乗ってきた頃に桑本は結婚した。働いていたキャバクラでホステスをしていた女の子だ。桑本は繁も結婚しろと言ってくれたが、俺は結婚する気はなかった。明美はすでに他の男と結婚しているだろうが、明美を裏切った俺がのうのうと他の女性と結婚しても、重い鉛を飲み込んだような気持で一生暮らしていくのが目に見えていた。


お好み焼き屋は順調に売り上げを伸ばし、俺は落ち着いた暮らしを続けていた。ある程度お金を貯めたら、一度熊本に帰ろうかとも思っていた。しかし、お袋に会わせる顔がない。そんなことを考えながらグズグズしているうちに、いつの間にか50歳を目の前にしていた。そんなとき、体調をくずし病院へ行くと、肺ガンだと診断された。俺は特に慌てることもなかった。そうか、俺の寿命はここまでなのかと静かに思っただけだった。とりあえず手術をして、転移していなければ大丈夫だろうと言われていたが、1年後の検診で転移が認められた。俺は桑本に、もしもの時はここに連絡してくれと、実家の電話番号を伝えた。


人は最期に、人生を走馬灯のように振り返ると聞いたことがあるが、振り返ってみると俺の人生って、何だったんだろうと思う。決して幸せな人生ではなかった。親父にも、お袋にも親孝行をしてやれなかった。何よりも、明美との約束を守れなかったのが、一番の悔いだ。

ドアが開いて、誰かが入ってきたようだ。

「繁、繁かい?」

お袋の声だ。俺も年をとって、尚且つ病に侵され顔が変わっているから驚いているだろう。

「あんた、何ばしとったばい!連絡もせんと」

お袋の声が泣き声になってきた。申し訳ない。ごめんなさいと心の中で謝るが、声が出ない。

「明美さんも来とるとよ。明美さんはあんたことずっと待って、うちの店ばかせしとったとよ」

うちの店を手伝っていた?アルバイトを一人雇っていたというのは、明美のことだったのか。

お袋が落ち着いたところで、ぞろぞろと、人が外に出て行く気配がした。

すると、誰かが俺の頬を撫でた。

「繁、お帰り」

明美の声だ。記憶にある声より、少し低い声だが、それだけ明美も年をとったということだ。

「ずっと待っていたのよ。必ず迎えに来てくれると約束してくれたから、繁は帰ってくると信じて、大野食堂で働きながら待ってたの」

明美は結婚していなかったのか?

「東京で苦労したのでしょ?私は言ったじゃない。私は贅沢な暮らしなんかしたいと思ったことない、繁と八代のこの街で普通に暮らすのが、私にとっては一番の幸せなんだって。お金持ちにならなくても、どんなボロボロの姿でもよかった。ただ、私のところに帰ってきてほしかった」

明美が俺の手を握った。俺は明美を抱きしめたい。明美の顔を一目見たい。もうオバサンになっているだろうが、最後に一目見たい。でも、目を開ける力が残っていない。意識が薄れていく。

「でも、最後の最後に会えて、良かった。私の知らないところで消えてしまわなくて良かった。最後に連絡してくれて、ありがとう」

明美がここにいるのに、俺は声をかけてあげることも、抱きしめることもできない。

ふと、唇に何かが触れた。明美の唇だ。

俺の人生はろくなものではなかったけど、こんなに明美に愛されていたのなら、男としては幸せだったのだと、最期に思えてよかった。

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