夜の海に沈む家
コテット
夜の海に沈む家
【第一章:波の音が眠りを誘う町】
この町には時計がない。
──正確には、あるにはある。だが、それが動いているか、誰がいつ見ているのか、そんなことは誰も気に留めていなかった。
町の中心に古い時計塔がある。赤錆びた鉄と石灰の白壁、苔の張りついた鐘は、もう何十年も鳴っていない。時間を測るという行為そのものが、この町では「不要なもの」として見なされていた。
港町・御崎(みさき)。地図上にはちゃんと載っているが、観光雑誌には一行も載っていない。電車は一日三本、店も少なく、コンビニさえない。
だがそれが、蒼真(そうま)にとっては救いだった。
彼がこの町に来たのは五年前の春。あの年、東京では桜が異様に早く咲き、蒼真は病院のベッドの上でそれをぼんやりと眺めていた。会社の階段で転倒し、頭を打ち、記憶が曖昧になった──というのは建前で、本当は過労による心因性の失神だった。
医者は言った。「しばらく、休んだほうがいい」
けれど「休む」場所が、彼にはなかった。都会の一人暮らしの部屋は、冷蔵庫の音さえ煩わしかった。テレビをつけても、スマートフォンを開いても、誰かの“正しさ”が追いかけてきた。
──ここではない、どこかへ。
その衝動だけを頼りに、彼は電車に乗り、降りた先がこの町だった。
町の端にある空き家──昔、漁師が住んでいたという木造家屋を借りた。そこは、断崖の上に建っていた。家の裏には石段があり、それを下れば、波打ち際へ出られた。
部屋のなかには海の音が絶えず響いていた。
昼も夜も、風と波のリズムが空気を震わせる。その音に包まれていると、頭のなかの雑音が薄れていくようだった。
彼は朝起きて、コーヒーを淹れ、散歩に出かけ、海を眺め、帰って寝る。そんな生活を、三日、七日、一ヶ月と続けた。
町の人々は干渉してこなかった。最初の挨拶以降、誰も過去を尋ねてこなかった。
「おにいさん、遠くから?」
「ええ、まあ」
「ゆっくりしていってね」
それだけで済む町だった。
蒼真は次第に、“時間”の感覚を失っていった。カレンダーも、腕時計も、スマホも使わない。代わりに、潮の香りで天気を読み、光の角度で時刻を知るようになった。
それが心地よかった。
──だが。
この町には、何かが“欠けて”いた。
そしてそれが、彼にとっては心地よさと同時に、どこか“罪悪感”のようなものを呼び起こしていた。
──欠けたもの。
──失ったもの。
──忘れたもの。
その輪郭が、夜の海の波間に、少しずつ浮かび上がっていくのだった。
【第二章:記憶の裂け目】
蒼真には、妹がいた。
名は、葵(あおい)。
白い肌と細い体、どこにいても目立つような華やかさはなかったが、笑うと口元にえくぼができて、それがとても愛らしかった。
七歳で亡くなった。
そのとき、蒼真は十二歳だった。
その日、雨が降っていた。
春の雨は、冬の名残を引きずりながらも、どこか優しい匂いがあった。母は買い物へ出かけ、父は休日出勤で家にいなかった。蒼真は家でテスト勉強をしていた。
──その数分間だけ。
妹をひとりにしたのは、ほんの、数分だった。
「お兄ちゃん、遊んで」
そう声をかけられた。
「あとでね」
そう答えた。
葵はふくれっ面でリビングから去った。
そのとき、蒼真の手には数学の問題集があった。来週に控えた模試が、彼の頭の中のすべてだった。問題の一問に悩んで、再び妹の存在に気づいたときには、もう静寂が家を満たしていた。
玄関が、少しだけ開いていた。
靴が、ひとつ、消えていた。
そして、あの音。
遠くで誰かが叫んだ。
走った。
家の裏の川。普段は穏やかな流れが、この日は雨水で膨れていた。
流れの中に、白いリボンが見えた。
──やめてくれ。
蒼真は靴のまま川に飛び込んだ。
冷たい。底が分からない。
手を伸ばす。見えない。
白いものが沈んでいく。掴もうとする。指先がすり抜ける。
息が続かない。目を開けると、葵の顔が見えた。
笑っていた。
なぜ、笑っていた?
そのときのことを、蒼真ははっきりと覚えていない。
気がついたときには、川辺に倒れていた。近所の人が彼を引き上げ、救急車を呼んでいた。葵は……見つからなかった。
数日後、下流で彼女の遺体が発見された。
両親は何も言わなかった。
母は泣き崩れ、父は背中を向けた。
彼らは誰も、蒼真を責めなかった。
だが、だからこそ、蒼真は“許されていない”と感じた。
許されないなら、いっそ、罰を受けたかった。
誰も彼を責めず、日々だけが過ぎた。
葵の部屋は片づけられずに残され、ランドセルは机の上に置かれたままだった。
夜、ふと目が覚めると、リビングのソファに座る小さな影を見たことがあった。
「……あおい?」
そう呼ぶと、影は立ち上がり、消えた。
それが現実だったのか、夢だったのか、今となってはわからない。
けれど、それ以来、彼の中には“どこかに葵がいる”という確信が根を張った。
東京での生活のなかでも、心の奥底で彼女の声を感じていた。
「おにいちゃん」
ときおり、電車の中、誰もいない廊下、駅のホーム、誰かが彼を呼ぶような錯覚があった。
彼は、それを幻聴だと思わなかった。
──これは、祈りの残響だ。
そんなふうに、自分を慰めた。
彼女の死は、“記憶”ではなく“現在”のどこかに存在している。
そう思っていた。
だから、海辺で見たあの小さな影──白いワンピース、濡れた髪、細い足首。
それが、葵であっても、驚きはなかった。
驚くより先に、心が震えた。
彼女は、こちらを見ていた。
──あの日と、同じ目で。
【第三章:沈む家】
それは、ある夜のことだった。
春を通り越し、海風に夏の兆しが混じり始めた頃。
蒼真は、眠りから目覚めた。
静かだった。
波音も、風のざわめきも、虫の声すらなかった。
代わりに、耳の奥で「きしり……きしり……」と木が鳴く音がしていた。
布団から抜け出し、裸足のまま廊下に立つと、床板が冷たかった。
──濡れている?
足元に水滴が広がっていた。さらり、と冷たい感触が足の甲を撫でる。
窓を開けると、潮の香りが、いつもよりも強く鼻を打った。
──家の外が、海だった。
信じられない光景だった。
崖の上に建っていたはずの家が、波間に浮かんでいる。
家の柱がぎしぎしと軋み、きしみ、波に揺られていた。
空は鉛色。月は出ておらず、星もなく、ただ光のない灰の空。
足元の板がまた、きしりと鳴った。振り返ると、部屋の奥に、誰かが立っていた。
小さな影。白い服。濡れた髪。
──葵だった。
彼女は、無言で蒼真を見ていた。
「……どうして」
思わず声が漏れる。問いかけるように伸ばした手が、震えていた。
葵は、一歩、足を踏み出した。
床板が、その足元から“溶けて”いった。
黒い水が滲むように広がり、部屋の端が崩れて沈み始める。
蒼真はとっさに彼女に駆け寄った。だが、指先が触れる前に、彼女はふっと後ずさり、波の中へと消えた。
「やめろ……やめてくれ……!」
叫んだ声が、壁に吸い込まれる。
揺れる家。傾く床。外の景色は完全に海へと変わっていた。
家の柱が折れた。天井から水が滴る。畳が水を吸い、ぶくぶくと膨らむ。
蒼真は、海に立つ。
彼の足元を、冷たい水が這う。
その先に、ふたたび葵が現れた。
今度は、にっこりと微笑んでいた。
「おにいちゃん」
その口の動きは、はっきりと、そう言っていた。
「いっしょに帰ろう」
彼女は、手を差し出していた。
その手が、信じられないほど細く、小さく、震えていた。
──あのときのように。
川の流れに流されながら、彼に向けて差し出された、小さな手。
今度こそ。
蒼真は、その手を取った。
そして、家は、沈んだ。
壁も、柱も、記憶も、すべてが静かに、海の底へ。
水の音だけが、彼の耳を満たしていた。
【第四章:記憶と現実の境界】
朝だった。
けれど、あの夜から、世界はどこか変わっていた。
蒼真が目を覚ましたとき、いつもの天井があった。湿った木材の匂い、鳥の声、遠くから聞こえる波音。変わらない朝のはずだった。
だが、変わっていた。
まず、時計が止まっていた。
針は三時十七分を指したまま、ぴくりとも動かない。柱時計も、デジタルも、すべて。
スマートフォンの画面は暗いまま。充電コードをつないでも反応しない。
外に出ると、海はいつもより近くに感じた。波が、すぐそこまで迫ってきている。
風がないのに、木々がざわめいていた。
町へ向かって歩いた。
通りには誰もいなかった。
魚屋も、惣菜屋も、郵便局も、すべてのシャッターが閉じていた。
町の広場に続く小道には、いつもは洗濯物や子どもたちの声があった。
そのすべてが消えていた。
──自分は、どこにいる?
いや、ここは確かにあの町だ。
けれど、誰もいない。
世界から、自分だけが取り残されたような感覚。
あるいは、自分だけが“別の層”に落ちてしまったかのような錯覚。
人の気配のない町を歩く。足音だけが、やけに大きく響く。
やがて、町のはずれにある小さな神社にたどり着いた。石段を登ると、古びた鳥居があった。
境内には誰もいなかったが、香の匂いがわずかに漂っていた。
神社の奥の拝殿の扉が、わずかに開いていた。
中には──蒼真自身がいた。
鏡のように、同じ顔、同じ服、同じ表情。
彼は黙って蒼真を見つめ、こう言った。
「お前は、まだ帰っていない」
蒼真は、言葉を失った。
「戻る場所があるのに、お前はそれを見ていない」
「なにを……?」
「“あのとき”に止まっているのは、葵じゃない。お前のほうだ」
言葉は、まるで心の中に直接響いてくるようだった。
偽りの自分が、真実を暴くとき、人はなにも言えない。
その存在──“もう一人の蒼真”は、ゆっくりと手を差し出した。
その手には、小さなリボンが乗っていた。
葵が最後に付けていた、白くて小さなリボン。
「これを、返しに行け」
「どこへ……?」
「海の底へ」
気づくと、神社の中には誰もいなかった。
手のひらには、リボンだけが残されていた。
──葵は、まだ待っている。
そう、確信した。
あの夜、手を伸ばして沈んでいった彼女の瞳は、決して憎んでなどいなかった。
ただ、寂しさを訴えていただけだった。
あの日、川の底へ沈んでいった小さな命。
あの夜、家ごと沈んだ記憶。
それらが、今ここで繋がっている。
蒼真は、再び海へ向かった。
それが、自分に残された最後の道だった。
【第五章:夜の海に沈む家】
夜が来るのは、いつも突然だった。
それはこの町に来てからずっとそうで、気づけば空は藍に染まり、気温が一段冷たくなる。日没の合図もなく、空気の匂いだけが変わる。
その夜、蒼真は白いリボンを手に、崖を下りた。
波の音が、まるで心臓の鼓動のように響いていた。
海は穏やかだった。
月が出ていた。雲ひとつない空に、満月が淡く照り、波に銀の道を作っていた。
その道の先に、彼女がいた。
葵だった。
何度も見た幻。けれど今夜は、それが幻でないとわかっていた。
彼女は、かつてと同じ白いワンピースを着ていた。だが、どこか背が伸びたようにも見えた。成長したのか、あるいは蒼真の記憶が勝手に書き換えているのか。
彼女は微笑んでいた。冷たい微笑ではなく、懐かしいあの笑顔だった。
蒼真は、手にしたリボンを掲げた。
「……これを、返しに来た」
葵は頷いた。
彼女は、波の上を歩くように近づいてきた。
そして、そっと蒼真の手からリボンを受け取った。
その瞬間、風が止んだ。
海が、静かになった。
まるで、世界全体が息をひそめているようだった。
「おにいちゃん」
葵は、唇だけを動かしてそう言った。
「もう、大丈夫だよ」
蒼真は、泣いていた。
こんなにも泣けるのかと思うほど、嗚咽が溢れて止まらなかった。
ずっと張り詰めていたものが、音を立てて崩れていった。
「ごめん……ごめんな……守れなくて……助けられなくて……」
葵は何も言わなかった。ただ、そっと手を伸ばし、蒼真の頬に触れた。
その手は、冷たかった。
けれど、温かかった。
「ありがとう」と、確かに聞こえた。
そのとき、蒼真の足元がふっと軽くなった。
海が彼を、沈めようとしていた。
それは恐怖ではなかった。
自然な帰還のように感じられた。
このまま沈んでいくのなら、それでもいいと思った。
だが、葵は首を振った。
「生きて」
その声は、はっきりと響いた。
そして、彼女はふわりと身を翻し、月明かりの中へ溶けていった。
波は穏やかだった。
風が戻った。
潮の香りとともに、現実の空気が流れ込んできた。
蒼真は、自分が砂浜に膝をついていることに気づいた。
手の中には、白い砂がこぼれていた。
リボンは、もうなかった。
彼は空を見上げた。
夜空は、どこまでも澄んでいた。
星が、いくつも瞬いていた。
──葵は、もういない。
けれど。
彼のなかには、確かにいる。
その夜から、蒼真は少しずつ日常に戻っていった。
町の人々が、彼に微笑みを向けるようになった。
時計が動き出した。
潮風が、少しだけやさしくなった。
そして蒼真は、初めてこの町を「好きだ」と思った。
“過去”は、もう沈んでいった。
“今”を、ここで生きていくのだと、ようやく決められた。
【終章】
海辺の道に、ひとつの白い花が咲いた。
その根元には、小さな石がそっと置かれていた。
裏には、こう彫られていた──
《ありがとう。さようなら。そして、またいつか。》
──終──
夜の海に沈む家 コテット @tatukaze
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