第6話 キューバリブレ


 3月の夜風は、どこか湿っていて、冬の名残と春の気配がまじりあっていた。


 街路樹の枝がそっと揺れ、枝先に小さくふくらんだ芽が月明かりに照らされていた。


「……まだ寒いな」


 男はコートの襟を立て、ネオンの灯る路地へと足を向ける。


 昼間は陽が差せば少しだけあたたかいが、日が暮れると一気に冷え込む——北海道の3月は、そんな季節だ。


 淡い明かりに照らされたネオンサインが、ぼんやりと浮かんでいる。



 店の名は……

R66【ルート・シックスティシックス】



「……やっぱ、入ろ」



カラン……コローン……



「……いらっしゃい」



「こんばんは。……空いてますか」



「ええ、いつもの席をどうぞ」


 男は軽く会釈し、カウンター右端の席に腰を下ろす。


 ネクタイを緩め、ふぅ、と息をついた。



「何にしましょう?」



「……キューバリブレを。ライム、しっかりめで」


「承知しました」


 グラスの中で、ラムとコーラ、そしてライムが音もなく混ざる。

 

 炭酸の気泡が、心の奥をなでるように静かに立ちのぼっていく。



「……後輩が、課長になったんですよ」



「ほう」



「俺より三つ下で、入社も三年後。なのに……立場が、逆になってさ」


マスターは何も言わない。ただ、グラスの水滴を拭いている。



「……悔しいとか、そういうのともちょっと違って……なんつうか、置いてかれたような……」


 男はグラスを持ち上げ、一口、喉に流し込む。甘さと苦さ、そしてライムの酸味が、ほのかに胸を刺した。


「辞めようかなって、少しだけ思いましたよ。でも……家庭があると、そうもいかなくて。嫁もパートしてくれてるし、子どもはまだ中学生で……。結局、意気地がないんです。踏ん切りつかないんですよ俺は、ははは」


 空のグラスを置いた指が、わずかに震えていた。


 マスターは静かにグラスを見つめる。


「……キューバリブレってのは、ラムの国が自由を願って生まれたカクテルなんです」



「……へぇ」



「でも、不自由な中で飲むのが一番うまいらしいですよ」


 男は思わず、ふっと小さく笑った。


「……なるほど。自由を夢見ながら、今を味わうってことですか」



「そういうふうにも、言えます」


 炭酸が、グラスの底からまた立ち上がる。

男はそれを見つめながら、もう一口ゆっくりと口に含んだ。



「……そうだな。あいつが出世したのも、努力の結果なんだろうし。俺が腐ってたって仕方ない。何より、子どもにカッコ悪い背中は見せたくないですからね」



 マスターは黙ってうなずいた。



「……もう少し、足掻いてみますよ。来年の昇進試験……受かってみせますよ」



「……それは、いい目標ですね」


 男は少しだけ背筋を伸ばしたように見えた。グラスの中の、ライムがわずかに揺れていた。



「もう一杯、ください。同じやつを」



「かしこまりました」


 再び注がれたカクテルが、ほんの少し濃く感じたのは気のせいか。

 男はグラスを掲げて、小さくつぶやいた。



「自由に、乾杯……なんてな」



______________



カラン……コローン……


 扉の音とともに、男の背中が春を待つ冷たい夜に消えていく。

 

 空気はまだ冷たいが、ほんの少しだけ春の匂いがした。


——きっとそれでいい。誰の自由も、誰の努力も、他人が測るものじゃない。

 

 今夜の一杯は、不自由を抱えながらも前を向こうとする背中に、そっと寄り添っていた。

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